鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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戸内海を船で横切り、船を乗り換えて淀川を遡上し、京都から江戸まで歩いたが、帰路において翌年一月に京都に入り、当時は堀川五条あたりに存在した本圀寺が宿館となった。ここにおいて石川丈山が出向いて一行に面し、その際に詩文唱和で交流を深めた。朝鮮通信使の吏文学官権侙は丈山との筆談において「日東之李杜」と絶賛した。この様子を示す文書「朝鮮学士菊軒権侙自筆原翰」(静嘉堂文庫蔵)のほかに丈山の漢詩文集『覆醤集』寛文十一年(1671)の序文に松永尺五をもって「異客之推弉欽服、称日東之李杜」と紹介され、朝鮮の吏文学官・権侙との唱和の様子を文集のなかでも大きく取り立てているのである。さいごに霊洞院本「三教図」の画賛についての研究において、この度は朝鮮国の賛者の特定ができ、対馬から釜山倭館へ御誂之注文が出されたという史料との関係性をみた点では前進したものの、「三教図」の賛を得る相手を朝鮮国に決めた次第については残された課題の一つである。現状では論拠に乏しいが、朝鮮国に対しては林羅山とその一家、狩野探幽一門、京都からの以酊庵輪番僧、石川丈山という国際感覚に優れた知識人の関与が想定できるものであろう。寛文年間の日本の文化的な側面を概観すると、林羅山(1583~1657)の子、林鵞峰(1618~80)が日本の歴史を宋代の史書『資治通鑑』に倣い、江戸幕府の修史事業として『本朝通鑑』を編むほかに、朝鮮通信使の来日や隣国との関係改善が進められたことによって刺激された部分も当然あったはずである。さらに明国からは度重なる招きにより隠元隆琦(1592~1673)が弟子を連れて来朝。徳川幕府と後水尾天皇からの崇敬をうけ、宇治に寺領を拝領し、寛文元年(1661)黄檗宗萬福寺を創建する。その際に洗練された広範にわたる中国文化も享受した時期でもある。日本を舞台に中国と朝鮮は双方ともに受け入れられていた点をその複雑に絡み合う部分も存在することを念頭に慎重に見ていく必要もあろう。さいごに、朝鮮国へ送られた御誂之注文の品目を見て考えることは、着賛を得るという目的は当然ながら、そのためだけではないように思われる。これは感想になるのだが、海を隔てた隣国朝鮮の文臣たちに徳川の御用絵師が描いた「三教図」や詩仙三十六枚などの朝鮮国とも共通して存在する仏教、儒教、道教、漢詩などの古典文化の習熟度を示し、文化面での闘いに挑んだのではないかと思えた次第である。― 123 ―― 123 ―

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