Ⅰ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告① 邨田丹陵を中心とした近代歴史画の研究研 究 者:女子美術大学 芸術学部 特任准教授 齊 藤 全 人本研究の目的は大きく分けて2つあり、1つは代表作《大政奉還》(聖徳記念絵画館蔵)〔図1〕が知られるのみでほとんど基礎研究の進んでいない邨田丹陵の生涯およびその画業を可能な限り明らかにすること。もう1つは、丹陵の描く作品を詳細に分析し、主に歴史画家として活躍した丹陵の近代日本画史における位置づけを探ることである。1.丹陵の生涯と画業丹陵は、明治5年(1872)東京に生まれた。丹陵の父直景は、旧田安徳川家に仕えた儒学者であり、国学、史学、有職故実に通じていた。幼少の頃より父から教えを受けた史学や故実の素養が、後に丹陵が歴史画家として活躍する土壌となったことは間違いない。学問より絵画を好んだという丹陵は、はじめ吉沢素山という画家に絵を学び、その後12歳(数え年)で土佐派の系譜に連なる川辺御楯に入門した。そして内国絵画共進会、東洋絵画共進会、内国勧業博覧会、また御楯が審査員を務めていた日本美術協会の展覧会などに出品を重ねていった。明治24年(1891)、20歳になった丹陵は寺崎廣業や小堀鞆音といった同年代の若手画家とともに日本青年絵画協会を結成する。彼らは、従来の日本美術協会の審査に不満を覚え、新派は新派だけの審査をすべきであると考えたのであった。そして、この協会の設立のために最も奔走したのが丹陵だったという(注1)。橋本雅邦、川端玉章、荒木寛畝、瀧和亭ら日本美術協会の上の世代の画家たちも協会の結成に賛同し、幹事長には岡倉天心が推挙され、丹陵は同会の幹事および審査員を務めることとなった。第1回青年絵画共進会では丹陵が出品人総代として褒賞贈与式で答辞を述べ(注2)、第2回青年絵画共進会の閉会後、東京府への景況報告が丹陵の名義で提出されているところ(注3)を見ても、丹陵が協会の代表という位置づけであったことは間違いない。丹陵は周囲の画家を牽引しながら日本青年絵画協会を軌道に乗せていった。ここへ― 1 ―― 1 ―1.2023年(2022年度助成)
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