画をどのように志したのか不明な点も多く、現存作例を網羅した研究も少ない。すべての画人をとりあげることは難しいため、本稿では特に安田雷洲の画業に注目したい。西洋絵画をいかに受容したかという点は、江戸から明治への絵画の流れのなかで重要なテーマのひとつであるが、幕末の江戸で活躍した安田雷洲やその周辺の諸作品を通じて、幕末明治期の洋風画の実像の一端に迫ることができればと考える。二、安田雷洲に関して安田雷洲は、名を尚義、俗称を貞吉・後に茂平、号を馬城・文華軒・雷洲など、蘭名をWillem van Leidenという(注4)。身分は御家人で、安政3年(1856)には小普請だった。画業は、はじめ葛飾北斎の弟子として活動し、その後、銅版画や洋風の肉筆画を描いた。現在では、江漢・田善に続く江戸の洋風画家として位置づけられている。また私塾を開いた蘭学者であり、銅版地図や地図製作法の著述を残した。残された作品からはナポレオンやロシア・北方への関心を有していたことがわかる。生年は明らかではないが、最初期の作品は、文化10年(1813)の「寒山拾得図」(東京国立博物館)である(注5)。『武江年表』の享和年間(1801~03)の項には「江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改める)、歌川豊国、歌川豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵岡北渓」と雷洲の名が出てくるが、享和年間の作品は確認されていない。最晩年の作品は、安政5年(1858)着賛の「富士箱根遠望図」(歸空庵)で、没年については、過去帳から安政6年(1859)と判明する。このように、雷洲は、元号でいえば文化年間から安政年間、世紀でいえば19世紀の前半から後半にかけて活躍した。「幕末の洋風画家」としばしばいわれるが、画業を本格化させたのは文明開化の足音がまだ遠い文化年間頃だった。初期の版本挿絵や浮世絵の画風からは、北斎の弟子として制作に励んでいた様子がうかがえる。師の北斎は「冨嶽三十六景」シリーズに先立って、寛政年間末~文化年間初め頃に洋風錦絵を複数制作していて、なかでも「銅板近江八景」や「阿蘭陀画鏡 江戸八景」の豆版の揃物は、銅版画を意識して制作されたものである。北斎は、江漢・田善の銅版画や西洋銅版画にも関心をもっていたと想像され、そのような環境は、雷洲が洋風画を志す一因だったかもしれない。確認される最も早い雷洲の銅版画は文政4年(1821)の「浅草寺歳市之図」(ライデン国立民族学博物館)であるが、前年には北斎風の絵馬「神功皇后と武内宿禰の図」(菅生神社)を制作していて、北斎に近しい時期から銅版画へ関心を高めていた。一方で、蘭学への傾倒から銅版画制作に進んだことも考えら― 131 ―― 131 ―
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