れる。すなわち近年見出された「蝦夷松前図」(個人)は文化13年(1816)の制作で、ロシアの南下に伴う北方への関心から制作された可能性が高い。その後の嘉永3年(1850)の銅版地図「本邦西北辺境水陸略図」に雷洲は「海防の一助となれば」といったことを記しているが、御家人として迫りくる列強を感じるなかで「蝦夷松前図」も制作されたのだろう。このような蘭学者としての活動で得た知識や技術が銅版画制作につながったようにも思われる。さて、これまで幕末という言葉をしばしば用いてきたが、そもそも幕末とはいつを指すのか、そのはじまりは、いつになるだろうか。一般的には嘉永6年(1853)のペリー来航や安政元年(1854)の開国以降と言われるが、必ずしも確定的ではなく、天保の改革(1841~43)の頃から幕末の社会の萌芽がみられるという説もある。美術史においても幕末の美術のはじまりは諸説あり(注6)、端的にいつからと断言することは難しい。本稿では西洋美術の写実性を取り入れた作品が多くみられるようになる天保年間以降を幕末の絵画の射程にいれておきたい。雷洲の肉筆画では天保年間以降に洋風作品が確認される。天保11年の「水辺村童図」(九州国立博物館)や「ワーテルロー戦闘図」(焼失)が早い例で、その後も舶載洋書の挿絵を原図とした作品はじめ多彩な肉筆画を描いた。銅版画では、天保末年頃に代表作「東海道五十三駅」を制作しており、文化期の作品にみられた田善や浮世絵の影響から脱却し、濃密な雷洲独自の画風となっているとされる。天保年間には、雷洲の名が文献上でも確認でき、天保4年(1833)の溪斎英泉『无名翁随筆』に「辰政ト云シ頃ノ門人-辰齊-雷斗(柳川重信ト云別記)-雷洲(青山に住スヨミ本アリ 銅板ノ紅毛画ヲヨクス)」とあり、天保13年(1842)『当時現在広益諸家人名録』には「(蘭画)雷洲 名尚義字信甫号文華軒 (四谷大木戸)安田茂平」とある。その後、亡くなる安政年間まで精力的に活動を続け、地震や合戦といったそれまでの銅版画にはない主題も取り上げている。安政2年(1855)とされる勝海舟「蕃書調所翻訳御用被命候節府下ノ蘭学者調姓名」には、「四谷新宿 銅板々工 御家人 安田雷洲」と雷洲の名がのる。これは安政4年(1857)に開業する蕃書調所(のちの洋書調所・開成所)の教官候補のリストだった。蕃書調所の教官は、創立当時、幕府の陪臣がかなりの数を占めたというが、その候補に雷洲もあがっていた。ただ、雷洲は選ばれることなく、安政6年(1859)に亡くなっている。蕃書調所といえば、画学局で学んだ川上冬崖(1828~81)や高橋由一(1828~94)らが思い浮かべられる。ともに初期洋画の担い手として近代に活躍していくが、雷洲は新世代と交わることはなかったようだ。蘭学から洋学へ、洋風画― 132 ―― 132 ―
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