鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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そのような意識が旗の改変に影響していると思われる。「群船図」は雷洲周辺の蘭学ネットワークの中で、ロシアへの関心を高くもった層に受容されたのだろう(注11)。〔表1〕は、基本的に雷洲の落款を有するもの、無落款でも雷洲とみなせるものをまとめているが、〔表1〕以外の洋風画で注目したいのが、歸空庵コレクションの「新蕨飛虻図」〔図4〕である。前景に先端が渦巻き状にまいている蕨と思しき植物が描かれ、その下には苔のような植物も繁茂している。背後には奥行が不明瞭な水辺のごとき空間が広がり、植物が生い茂っているようだ。画面右にはうねる幹の木が大きく描かれ、幹の陰影は細かく銅版画を意識したような線を重ねて表現している。画面中央上部には2匹の虫が飛んでいて、タイトルにはアブとあるが、現代の分類ではクマバチか。異様な雰囲気を持った本作の作者は小田野直武とされている。しかし18世紀に直武が描いた秋田蘭画の数々とは画風の隔たりがあり、うねる幹や木の枝ぶり、土坡などは雷洲の肉筆画に近似性が求められるのではないだろうか。例えば、画面右の木は№35「江戸近国風景のうち 下つけからす川の景」〔図5〕(神戸市立博物館)、蕨の左右にある岩の土坡は№15「赤穂義士報讐図」〔図6〕の地面の描写と類似しているように思われる。本作を雷洲自身の作と断定することは早計かもしれないが、雷洲周辺の人物の作例である可能性は高いのではないか。それでは雷洲に近しい人物として、弟子がいたかという問題について触れておきたい。角田拓朗氏が、江戸時代に描かれた洋風画は「独立してやや同時多発的に発生した事象だった」と指摘しているように(注12)、洋風画は「派」と呼べるほどの広がりは見せず、絵師個人で完結している印象が強い。とはいえ、それぞれの絵師に弟子がいなかったわけではない。田善には須賀川系と呼ばれる遠藤田一(1765~1834)、安田田騏(1784~1827)、遠藤香村(1787~1864)らがいたことが知られる。では雷洲についてはどうか。文献上、蘭学の門下はいたようである。雷洲の著書『地球度割図解』に「我塾に遊ぶものに示す」という文言があるためだ。一方、画業に関する弟子がいた記録は確認できない。だが、ロシアとトルコの戦いを描いた安政4年(1857)「西洋戦闘図(交戦図)」(神戸市立博物館)の筆者「電斎」は雷洲周辺の絵師の可能性が指摘されている(注13)。また電斎作品と以前は同巻子だったが、現在は別々となっている無落款「西洋戦闘図(進軍図)」(神戸市立博物館)も雷洲に類似した描写がみられる作品で、木の描写は「新蕨飛虻図」を連想させる。現時点では雷洲の弟子の有無について断言はできないが、類似した作品を描いた人物がいたことは確かであり、今後の研究の進展を期待したい。― 134 ―― 134 ―

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