東京美術学校を卒業した横山大観、下村観山、菱田春草らが加わり、明治29年(1896)に日本青年絵画協会は日本絵画協会へと改称する。この頃から協会内部では東京美術学校の色合いが強くなっていき、明治31年(1898)に東京美術学校を辞職した岡倉天心が日本美術院を起ち上げると、日本絵画協会と日本美術院は合同で展覧会を行うようになる。もともと天心は日本青年絵画協会の幹事長ではあったが、丹陵自身は協会と美術院は全く別個のものであると認識していたようである。便宜上両団体で共同展を開くだけのつもりでいたところ、気が付けば協会は美術院派が主流となっており、丹陵にしてみれば「庇を貸して母屋をとられる」といった心境だったようである(注4)。日本青年絵画協会、日本絵画協会で定期的に作品を発表し、審査員を務める以外でも、丹陵は着実に画家として名を上げていった。明治28年(1895)には、第4回内国勧業博覧会に《富士巻狩図》(石川県立美術館蔵)〔図2〕を出品し、妙技三等賞受賞の上、宮内省によって買い上げられている。また同年に宮内省から《黄海海戦図屏風》3隻〔図3〕の制作を命じられている。制作にあたって丹陵は、横須賀の軍港へ出向き軍艦や兵器を実見したほか、軍艦の乗員から当時の状況を聞き取り、制作に活かしたという。戦争画という初めてのジャンルへの挑戦でありながら、写実性・記録性を重視するところは歴史画と共通している。完成した下絵は賞賛を集め、丹陵の代表作の1つと見なされることになった。この下絵を12代西村總左衛門が忠実に刺繍で再現し、完成した4曲屏風3隻は宮内省へ納められ御物となった。注目すべきは、国の勝利を記念して帝室に納めるための屏風制作という大役が、宮内省から若干24歳の丹陵に命じられていることだろう。同様の御下命を受け平壌戦を描いた東城鉦太郎と比べても、丹陵は7歳も若年であった。後にこの時期を指して「丹陵時代」と評する記事が散見されるが、それほどまでに当時の丹陵は若手日本画家の筆頭として認識されていたのである。続いて明治34年(1901)7月、丹陵は香川県高松の有志家の招待を受けて、高松を訪れている。この有志家が誰なのかは、当時の記録をみても不明であるが、高松藩初代藩主松平頼重を祀る玉藻廟に奉納するための《六歌仙図》(高松松平家歴史資料、香川県立ミュージアム保管)〔図4〕をこの年に丹陵が手がけ、その絵に高松松平家の当主頼聰らが書をしたためているところを見ると、高松松平家の求めに応じて現地を訪問した可能性が高い。高松滞在中には屋島保勝会からの依頼で絵を制作、また屋島寺のために対幅を描くなどしている。屋島といえば源平合戦の舞台になった古戦場であり、丹陵は高松からさらに中国地方、九州まで古戦場をめぐって漫遊している。― 2 ―― 2 ―
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