リャ美術館の摺物はほぼコピーAと評価した(注15)。1820年制作でチェスター・ビーティ─図書館に所蔵されている魚屋北渓画「芸者と凧を持つ少年」〔図17〕とソローリャ美術館所蔵の摺物〔図18〕を比べてみよう。少年の持つ凧に書かれた字が全く異なる。1820年代のものには「道列(みちつら)」と書かれ、1890年代に復刻されたものは「靏(つる)」となっている(注16)。字の違いばかりでなく、複製する過程で芸者の着物や帯の柄が簡略され、建物の柱の間に張られた黒い札の印も省略されている。ソローリャの摺物帖は見返しの次に勝川春亭と歌川國貞の画が続き、魚屋北渓、歌川国芳と高名な浮世絵師たちの作品が見られる。複製であっても台紙にも金が施され、摺物がサロンの仲間に配る大変高価なものであったことがうかがわれる。ソローリャ美術館にある魚屋北渓の「武者松竹梅版続 松 巴御前」が千葉市美術館にも所蔵されており、その情報によれば版画のサイズは約20cm四方である。摺物には魚屋北渓の「市川團十郎羽子板と伊勢海老」〔図19〕や葛飾北斎の「小烏丸の一腰」〔図20〕などの画面を斜めに切るような大胆な表現はあるものの、ソローリャの作品に見られる大胆な構図との類似を示すまではいかない。摺物はいわば「狂歌の題に合わせた挿絵」であり、「見る者の目を楽しませる」ものである(注17)。ソローリャの自然をありのままに描くという自然主義的な作品に影響を及ぼしたとは言い難い。画譜や摺物はあくまで画家の日本趣味による収集(注18)と考えられるだろう。4.ソローリャと写真作品制作におけるソローリャの写真の使用については批判のあるところだ。1909年6月のニューヨーク・イブニング・ポストで「現在メトロポリタン美術館に展示されている《海岸に向かう漁船の雄牛》(注19)などは単なる本物そっくりなクロモリトグラフ」、「浜辺を走る子どもたちの瞬間的な写真のコピー」という記事(注20)を読むことができる。画家の絵がリトグラフや写真のようだと批判されているが、ソローリャは写真画像を制作の手段として使うことに抵抗はなかったという(注21。)前述したようにソローリャと写真の関係は義父が営む写真館の仕事から始まった。フランスの写真技術の発展についてはよく知られているが、スペインでも1839年11月にバルセロナで初めてタゲレオタイプの写真が撮られている。1870年頃からは写真に色彩を求めて、モノクロ写真を手彩色で着色するようになった(注22)。ソローリャと写真との接点で重要な義父アントニオ・ガルシア・ぺリスはバレンシア大学で化学を学んだ後に、バレンシアのサン・カルロス・美術アカデミーで肖像画― 144 ―― 144 ―
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