鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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も学んだ。もともと化学知識があるうえに芸術的才能も持ち合わせたガルシア・ぺリスは1869年にバレンシアの中心地に写真館を設立し、当時では非常に進歩的な写真館を営んだ。写真撮影を通してバレンシアの要人との人脈も築き、王室の写真家に任命されている。義父はまた、磁器、プラチナ、オパールへの写真加工や写真の彩色なども指導した(注23)。ソローリャは1878年にサン・カルロス・美術アカデミーに入学し、ガルシア・ぺリスの息子と出会って写真館での仕事を紹介された。義父はソローリャに最新技術であった写真館での彩色や修正、仕上げの仕事を担当させ、さらに絵を描くためのアトリエを写真スタジオの上階に与えた。ソローリャ美術館のメネンデス・ロブレスは「おそらく彼(ソローリャ)も、彼の師が行ったように、等身大に拡大して本物のキャンバスに似せた肖像画に油絵具を使ったことだろう(注24)」と述べ、油絵具を使った彩色作業が画家の作品制作に生かされていることを示唆した。現在までの調査でソローリャが着色した写真は見つけられなかったが、ソローリャ美術館にガリシア・ぺリスが撮った写真《アニタとクロティルデ》〔図21〕が所蔵されている。着色が水彩か油彩かの正確な記載はないが、「油絵具」によるものと推測される。東京都江戸東京博物館の岡塚章子は、写真油絵の制作には繊細な技術が必要で、「写真と油絵を組み合わせた究極の写真表現(注25)」と記している。日本で写真技術の発展に貢献した横山松三郎は写真だけでなく、上野池之端の写真館「通天楼」に洋画塾を併設し、写真業を営む傍らで絵画指導も行った。横浜写真の日本人写真師で高名な日下部金兵衛も日本画をたしなみ、写真館を閉館した後は日本画を描いた。両者ともに絵の素養があったといえる。ソローリャも美術学校で油彩を描いていた経験が写真の彩色に十分に生かされたことだろう。1882年には義父の写真館に電気照明が設置された。ソローリャはローマに留学する1894年までスタジオで仕事を手伝ったことから、被写体へ照明を当てていたことは想像に難くない。「光の画家」とも称されるソローリャの「光」への強いこだわりにつながるひとつの経験であったかもしれない。ここまで画家と写真との関わりが義父ガルシアの写真館から始まり、写真油絵制作の影響について述べてきた。改めてジャポニスムという視点から画家の作品と写真に注目してみよう。5.作品と写真ソローリャは先行研究でも示した「景色と見物人」という組み合わせで多くの作品― 145 ―― 145 ―

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