また高松滞在中の丹陵は、10月頃に金刀比羅宮に参拝したのをきっかけに、表書院の障壁画制作を委嘱されることとなった。円山応挙、伊藤若冲など名だたる画家の障壁画と同じ空間にならび描くことに、丹陵の喜びも非常に大きかったという。年末に一度帰京した丹陵は、翌年(1902)3月に門弟らを伴って金刀比羅宮を再訪し、数ヶ月にわたり制作に打ち込み、いまも表書院にのこる障壁画を完成させた〔図5、6〕。明治37年(1904)2月に日露戦争が勃発すると、丹陵と寺崎廣業は戦地の状況を実写することを願い出て、丹陵は海軍、廣業は陸軍に従軍することが許可された。丹陵は6月に議員や記者ら、そして洋画家の東城鉦太郎とともに観戦船満州丸に乗り、その後も戦地にとどまって海戦、陸戦の両方を目の当たりにしている。廣業は7月、丹陵は12月に無事帰国し、翌年2人で「二龍宝台」と題した戦地記録画帖〔図7〕を合作した。こうして重要な仕事を数々こなしてきた丹陵であったが、明治40年(1907)、第1回文部省美術展覧会へ出品したのを最後に、表舞台から突如として姿を消す。この時丹陵はまだ36歳である。丹陵が出品した《大宮人》(福岡県立美術館蔵)〔図8〕は三等賞受賞、さらに宮内省買上となっており、決して評価が低かったわけではない。ただ日本青年絵画協会時代からの同輩だった寺崎廣業、小堀鞆音、また後から同協会に加わってきた横山大観、下村観山はこぞって文展の審査員に任命されていたのに対し、丹陵は下の世代とともに審査を受けなければならない立場であった。自身が起ち上げたはずの日本絵画協会が、日本美術院との合流で思わしくない方向へ進んでいたこともあり、ここにきて丹陵は不満を抑えきれなくなったと推測することもできる(注5)。ただ、丹陵自身の残した言葉からは、競争が過熱し続ける展覧会への参加に倦怠を感じたこと、絵を苦しんで描くのではなく楽しんで描く気持ちを取り戻したくなったという本心も見え隠れする(注6)。いずれにせよ丹陵の名前が世に出る機会は一気に減り、残された作品を見ても一般的に働き盛りと言える40代の作は目に見えて少ない。しかし丹陵が51歳になった大正11年(1922)、公爵・徳川慶光から聖徳記念絵画館に奉納するための《大政奉還》の制作が依頼される。これが丹陵の晩年を飾るモニュメンタルな仕事となった。絵画館を飾る80面の壁画のうち徳川政権の終焉を描く「大政奉還」という画題奉納者が、最後の将軍徳川慶喜の孫にあたる徳川慶光となったのは当然のことであり、その制作者として丹陵に白羽の矢が立ったのは、歴史画を得意とする画家として実績が十分にあったことに加え、田安徳川家に仕えていた父直景から続く徳川宗家・分家とのつながりが大きく関係していたことも想像に難くない。― 3 ―― 3 ―
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