鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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さらに、陸信忠より早い時期(1194年以前)に活躍したと推測される金大受は、十六羅漢図の中で流麗な鳳凰円文を描いている。図8の左は第五尊者、右は第十尊者であるが、一羽の鳳凰が羽を広げて飛翔する姿が文様化されており、伸びた尾羽によって円の外形が形作られる。羽の先端が随所で蕨手状や円弧を描いており、ボストン本十六羅漢図に顕著な、渦巻形が外円に沿って配される形〔表1-E〕は、ここから展開した形とみなせる。3 鳳凰円文の使用ルール「陸信忠」作品で最多の作品数を誇る十王図は、入念に仕上げられた作品と、図様と技法の省略が行われた作品との振幅が特に大きい。十王図には簡略化された鳳凰円文が頻出するが、永源寺本では、金泥ではなく青みの強い銀泥と思われる絵具が一様に使用されている。地蔵菩薩図の衣部の文様は、表1のLがBから崩れた形、MがCと同程度の崩れ方と考えられようか。ただし、崩された鳳凰円文の線を忠実に写そうとした意識だけが見て取れ、元は鳥形であったことが理解されていたとは考えにくい。崩された鳳凰円文のある「陸信忠」作品を手本に制作されたことは間違いないが、制作集団の中枢で共有されていたはずの文様への理解は継承されなかったと推測される。善導寺本は、永源寺本よりも法量が小さい。「慶元府車橋陸信忠筆」の落款があり、旧軸裏の墨書により、応安6年(1373)に「筑前国鞍手郡若宮御領武恒方平山寺」に所蔵されていたことが分かる。平山寺は、現在の福岡県宮若市内にある平山寺跡(黒丸薬師堂)を指すと考えられ、当寺の良覚、栄朝等によって修補されているため、この頃には既に日本に舶載されていたことが判明する。善導寺本も崩された鳳凰円文が随所に表されており、表1のJやKでは線画が減り、さらに省略が進んでいる。本作には銀泥の使用はみとめられず、鳳凰円文も全て金泥描である。一方、奈良博本には、鳳凰円文がほとんど使用されないという大きな違いがある。五官王図と泰山王図には、十王の傍らに童子形の侍者が描かれ、彼らの捧持する箱の包み布にかなり簡略化された鳳凰円文が金泥で表されているが、鳳凰円文が使われるのはこの部分だけである。先述した通り、奈良博本は他の「陸信忠」十王図とは一線を画す、洗練した画風の作品である。その落款は「慶元府車橋石板巷」という地名も含むものだが、全ての図で「陸」と「筆」の間の「信忠」と書き入れられる部分の料絹が欠失するか、あるいは料絹の表面が荒れており、「信忠」という文字を確かに確認できる幅はない(注13)。あるいは、別の名が書き込まれていたのを、陸信忠の知― 156 ―― 156 ―

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