丹陵が制作依頼を受けた翌年の9月1日、大震災が東京を襲った。地震によって発生した火災は東京中を焼け野原に変え、下谷区にあった丹陵邸は焼失、この時までに集めていた壁画用資料もすべて灰燼に帰した。やむなく戸塚町(現・新宿区西早稲田付近)に転居していた丹陵を援助したのがかねてより親交のあった砂川家であった。砂川家の当主・砂川憲三が丹陵の父直景に漢学を習っていた縁から、丹陵も砂川家から絵の制作や古画の鑑定などの依頼をしばしば受けていた。そして憲三の跡を継いだ長男一平が、被災した丹陵の苦境を知り、東京府下の北多摩郡砂川村(現・立川市砂川町)の土地を提供し、住居および画室を新築することとなる。丹陵はありがたくこの厚意にあずかり、大作《大政奉還》の制作に専念するための画室を自ら設計した。昭和2年(1927)に転居すると、丹陵は画室を「安々園楽々荘」と名付け、都会の喧噪から隔絶し、武蔵野の雑木林に囲まれた環境で壁画制作に打ち込むこととなる。昭和9年(1934)4月に大下図を完成させ、いよいよ本画の制作に取り組む段階になると、丹陵は揮毫前には必ず斎戒沐浴して身を清め、家人さえ画室に入ることを許さず、骨身をけずる苦労を重ねて制作に集中した。昭和10年(1935)、制作依頼を受けてから実に13年の歳月を経て、聖徳記念絵画館に飾る壁画《大政奉還》〔図1〕が完成した〔図9〕。制作途中で重い病に倒れながらも身を削って制作に打ち込んだため、すっかり身はやつれ、歯はすべて無くなっていたという。大役を果たし重責から解放された丹陵は、家族に囲まれながら穏やかな日々を過ごし、壁画完成から5年後の昭和15年(1940)69歳で人生の幕をおろした(注7)。2.丹陵の代表作と画風展開次に、丹陵の画風にはどのような特徴があり、また初期から晩年にかけていかに変化していったのかを見ていきたい。前項で記した通り、丹陵は12歳で川辺御楯に入門し、10代の頃から様々な展覧会に出品している。この時期の作品は残念ながら現存が確認できず、図版も見出すことができなかったが、文献資料に残された作品名から判断する限りその多くは合戦図などの歴史的画題であった。現存最初期例と言える《重盛諫爭図》(個人蔵)〔図10〕は、切れ長の目をした特徴的な人物の面相や細緻な描線が師・御楯の画風に近似しており、まだ丹陵自身の画風を打ち出すにはいたっていないことが分かる。日本青年絵画協会を結成し若手日本画家の筆頭として活躍していた丹陵20代の作品を見ても、御楯からの影響がまだ色濃く認められる。たとえば明治27年(1894)の《両雄会湖畔図》(砂川家蔵)〔図11〕では、― 4 ―― 4 ―
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