鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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そうした絵画の基本的な問題において、ホイッスラーは日本美術から大きな影響を受けていた」(注5)と指摘している。いずれにせよ、ホイッスラーは、レアリスムからの脱却をはかりつつも、ジャポニスムの影響により装飾性や平面性をとり入れ、写実的な自然表現を拒んだ。本作は、自然の微妙な光の変化を、限られた色彩を用いて試行錯誤した痕跡がうかがえる。よって、本作は、この後の《青と金のノクターンオールド・バターシー・ブリッジ》(1872-1875年頃)のような「ノクターンシリーズ」への前段階として位置づけることができよう。一方、春草の《海辺朝陽》は遊学直後の明治39年(1906)に制作された。そもそも、春草が遊学前にホイッスラーの作品を見た可能性は低い。ホイッスラーの作品が本格的に日本の美術雑誌に紹介された時期は、明治36年(1903)以降であり、春草たちが朦朧体を試みる過程で、ホイッスラーの作品から直接的な影響を受けたとは言い難い(注6)。しかし、ホイッスラーの存在は、明治期にすでに日本に伝わっていたようである。明治23年(1890)に、美術商・林忠正が明治美術協会の演説でホイッスラーを紹介したことは注目に値する(注7)。また、春草と大観が欧米遊学後に発表した画論「絵画に就いて」(明治38年(1905)12月)には、ホイッスラーの絵画観に共通する要素が垣間見られる。この画論には、西洋美術に対する率直な意見や、今後の展望が記されており、遊学後の春草らの意識を知ることが出来る重要な資料となっている。もっとも注目すべきは、今後の方針を色彩研究へ向けたことである。とりわけ、「書画一致の初期を離れて、専ら色調を以て自立すべき者たること、恰も彼の音楽が専ら音調の上に自立する者と同一般の次第と在候。」(注8)、「絵画が書画一致の範囲から逸脱し、色彩によって自立することは、音楽が音調によって音楽らしくなっていくことと同じである。」(注9)と記した部分は、偶然にも明治18年(1885)に、ホイッスラーがロンドンのプリンシズ・ホールにおいて「10時の講演」と題した講演で、色彩に関して「色彩と形において、あらゆる絵画の要素を包含しており、それは鍵盤があらゆる音楽の音符を包含しているのと同じである」(注10)と述べたニュアンスに近似している。もう一点、この画論で重要なことは、写実の否定と自然美を以下のように主張したことである。畢竟するに芸術の要求は、自然其儘の不満足より来れるものに候へば、其自然以上に出づるを必須とすべきは勿論の議と存候。且つ夫れ絵画は元来サッジェスションに依るの技術に候へば、夫の雪声の浙瀝たるなど、固より露骨なる写実の― 165 ―― 165 ―

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