鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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2-1.《落葉》の同時代性企て及ばざる所にして、所謂写実の方法にては、実際貫徹難しき弱点ありと被存候(注11)。ここでは、単に写実的に自然を描くことは芸術の究極ではないとし、自然を描く際は、画家が自然以上になる必要があるとした。すなわち、画家はありのままの自然を受け入れ、自然の内部を観照しなければならない。そのためには、鑑賞者に画家が感じた自然美を暗示的、あるいは想像的に推量させる表現力が必要になる、と主張した。以上のことをふまえ、《海辺朝陽》を考察する。地平線を低く描き、空を広くとる構図は、一見、クールベの作品を想起させるが、平面的な構図をとる点ではホイッスラーの作品にも近似する。しかし、《海辺朝陽》は、ホイッスラーやクールベよりもずっと造形が簡略的であり暗示的な表現でもある。色彩に関しても、琥珀色、寒色系の青、白など極端に色調が制限されており、ホイッスラーの「ノクターンシリーズ」をも想起させる。しかし、春草らが「ノクターンシリーズ」やクールベの作品を見た確証はない。少なくとも「絵画に就いて」で示された暗示性を重視した絵画観は、《海辺朝陽》の表現にみてとれよう。まとめホイッスラーはジャポニスムによって、独自の絵画観を創造し、トーナリズムの表現に至った。春草らは欧米遊学でホイッスラーの作品に共感を覚えたことは明らかであろう。少なくとも、東西の美術作品が接触した際に創出される同時代的な特質を、春草たちは直感的に感じ取っていたのではなかろうか。春草の朦朧体には、ホイッスラーとの同時代性というべき「共時的」な特質がみてとれよう。春草が明治42年(1909)に制作した《落葉》〔図4〕(第3回文部省美術展覧会出品作永青文庫蔵 熊本県立美術館寄託)には、同時代の日本画、洋画、そして西洋近代絵画に近似する要素がある。それは、俯瞰的な視点で樹木の根本を捉え、樹幹を、画面を断ち切るように配す画面構成である。これに関しては、すでに勅使河原純氏が、平面性の理論を提唱したフランスのナビ派、モーリス・ドニ[Maurice Denis](1870-1943)の《ミューズたち》〔図5〕を例に挙げ、俯瞰構図、背景の樹木の配置、平面的な大地の表現が《落葉》に近似していることを指摘している(注12)。また、古田亮氏は、グスタフ・クリムト[Gustav Klimt](1862-1918)と琳派との接点に触― 166 ―― 166 ―

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