2人の騎馬武者の勇猛さを表すように肥痩をつけた存在感のある線を用いている。これは御楯が武者絵を描く際に、力強い迫力を表現しようと用いた描線に非常に近い。もう一つ御楯と言えば、《尹大納言赴比叡山図》(福岡県立美術館蔵)〔図12〕や《新田越後守義顕血戦之図》(皇居三の丸尚蔵館蔵)〔図13〕のような無数の人物を画面全体に入念に描き込む群像表現が知られている。丹陵も《碧蹄館勇戦図》(三原市蔵)〔図14〕、《狩之図》(福岡県立美術館蔵)〔図15〕などで密集した人物描写に挑んでいるが、御楯と比較するとより奥行きが整理され、後ろにいくほどモチーフを淡く薄く描写するいわゆる空気遠近法が用いられ、また画面内での人物配置に粗密のリズムを作ろうとするなど新たな意識が認められる。丹陵が30代に入ると、無数の人物が入り乱れるような描写は影を潜め、人物を単身または2、3名程度に絞って描く作品が目立つようになる。例外的な群像表現と言えるのが、明治35年(1902)に約半年をかけて描いた金刀比羅宮表書院の障壁画である。富士の間(一の間、二の間)という室名にちなんで、丹陵は建久4年(1193)に源頼朝が富士山麓で行った通称「富士の巻狩」を画題に選び、富士二の間の襖全16面には鹿追いをする源頼朝一行40名以上を丹念に描いている〔図6〕。続く富士一の間には、水墨の富士図を床の間から襖へと連続して描き〔図5〕、両間を隔てる襖を開き一続きの空間にすると、雄大な富士を背景にその麓で巻狩を行う情景が再現される仕掛けとなっている。「富士の巻狩」を題材とした絵を丹陵は好んで描いたが〔図2、5〕、富士の全体像を描こうとすれば狩りをする人物は点景として小さく描くほかなく、逆に人物をある程度クローズアップして描こうとすれば富士の壮大さは犠牲にせざるを得ないという課題を抱えていた。金刀比羅宮において、丹陵は立体空間を活かすという画期的な手法でこのジレンマを解消しているのである。これは同じ金刀比羅宮表書院上段の間で円山応挙が行った立体的な空間構成に大きな影響を受けたものと思われる。最後に、晩年の代表作《大政奉還》〔図1〕について、その制作過程に注目しておきたい。丹陵は、大正14年5月に二条離宮(二条城)を拝観して画想を練った。昭和4年(1929)4月にも二条離宮を再訪し、大広間の詳細な調査を行っている。その後も宮内省侍従職に願い出て参考となる資料を拝観し、文学博士関根正直にも教えを請うなどして下図を完成させ、昭和5年(1930)9月から本図の制作に着手した。しかし翌年7月、突然徳川慶光から絵の内容を変更できないかとの打診がある。具体的には、慶応3年10月13日に小松帯刀ら4名が二の丸御殿大広間で将軍慶喜に謁見し、政権返上に賛同の意を表明する場面を描くのではなく、その前日12日に慶喜が守― 5 ―― 5 ―
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