鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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護職松平容保、所司代松平定敬、老中板倉勝静、若年寄永井尚志ほか大小目付以下諸役人を黒書院に召集する場面が提案されたのである。丹陵はこれを快諾し、あらためて新図の構想に取り組み始めた。昭和6年11月、丹陵は3度目となる二条離宮調査を行い、黒書院の実測や写生、撮影、さらに違い棚の金物や欄間組子の拓本まで念入りに採っている。京都滞在中に小下図を作り、帰京後に徳川慶光に提出、奉賛会の承認も得て大下図の制作に取りかかった。そして前述の通り、昭和10年に壁画の完成を見せるのである。制作に際しては、徳川宗家や関係諸家を訪ね丹念に考証を進め、徳川慶喜の各年齢の写真も徳川公爵家から借用し、また自ら画中人物の扮装をして写真撮影を行ったという。この徹底した時代考証は晩年まで変わることがなかった。3.「冷たい歴史画」から「熱い歴史画」へのパラダイムシフトの中で歴史画という言葉は近代以降に生まれたものであるが、過去の史実や古典を題材として絵を描くという行為自体は日本絵画史において連綿と行われてきたと言っても過言ではない。それを近代という時代に限定して眺めた時に見えてくるのは、「冷たい歴史画」から「熱い歴史画」へのパラダイムシフトではないだろうか。歴史画を描く上での丹陵の主眼は、綿密な調査(実地検証、文献考証)に基づきいかに正確に衣装、武具、舞台を描くかにある。それは彼の代表作である《大政奉還》にも当てはまることはすでに論じた通りである。必然的にその絵は非常に説明的となり、まさに歴史の教科書に用いられるのにふさわしい作品として今でも多くの人の目に触れることとなったわけだが、その代わり登場人物ひとりひとりの感情を直接的に丹陵の絵から読み取ることは難しい。こうした客観的、叙事的な歴史画のことを仮に「冷たい歴史画」と呼ぶならば、その一方で、明治30年代以降日本画の主流として評価されるようになるのは、登場人物の内面性や人間ドラマ、感情の交錯などに焦点を当てて描く、言わば人間主体の「熱い歴史画」だった。丹陵の師・御楯や丹陵と同じ日本青年絵画協会で活躍した小堀鞆音などは「冷たい歴史画」系列であり、下村観山、今村紫紅、小林古径、前田青邨などの描く絵は「熱い歴史画」に分類されるだろう。この「冷たい歴史画」から「熱い歴史画」へ、というムーブメントは不可逆的な流れであった。最も直接的な要因としては、岡倉天心の薫陶を受けた東京美術学校卒業生や日本美術院系の画家たちが、目に見える事象を描くのではなく、より抽象度の高いテーマを絵画化することにこぞって挑戦したことが大きい(注8)。橋本雅邦が「心持」という概念を提唱していたこともこれと無関係ではない。逆に丹陵には抽象― 6 ―― 6 ―

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