鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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10)。名所図会は名所記に実景描写の挿絵を多数加えた地誌であり、本来的な概念である歌の「名所(などころ)」という範疇を越え、寺社・旧跡などまで含めた案内地誌である(注11)。江戸中・後期には伊勢参宮を建前とした日本各地への旅が庶民の間で流行し、道中案内や名所図会は今日におけるガイドブックの役割を果たした(注12)。池上真由子氏は『江戸名所記』が中世的な歌枕の名所(などころ)的要素を残しながら、見物人のために「見て楽しみ、訪れて楽しむところ」としての新しい名所を紹介したことを指摘し、この頃から名所の概念も、遊楽のために訪れる場所という意味に変化していくと述べている(注13)。この状況から、名所図会で取り上げられている場所は、当時の人々に「名所」として一定の共通認識がなされていた場所であると考えられる。江戸時代に生まれ育ち、明治初期に活躍した画家たちが、これらの名所図会を実見していた可能性もあるだろう。そこで次に『江戸名所記』が刊行された1662(寛文2)から明治45年(1912)に刊行された名所図会のうち筆者が内容を確認できたものリスト化した〔表1〕。先述の抽出した風景画のうち〔表1〕に含まれる名所を描いた作品は102点が確認でき〔表2〕、全体の半数程度が該当した。松島や不忍池、隅田川、富士、田子の浦など伝統的な名所を描くものが数多く見られ、場所の一致だけでなく、桜の名所として小金井を描く五百城文哉《小金井の桜》、紅葉の名所として滝野川を描く高橋由一《滝之川紅葉》、月夜を描く松本民治《東都今戸橋乃夜景》など、名所図会で紹介される内容と一致する表現を用いる事例、つまり伝統的な定型モチーフを用いる例も多く見つかった。一方で、名所図絵に掲載される名所を描きながらも異なる描写をするものには、二重橋を描かず城だけを描く構図が特徴的な高橋由一《旧江戸城之図》、浅草寺を描かず自然景のみを描く、同じく由一の《浅草遠望(関屋の里)》、愛宕の風景でありながら愛宕神社を描かない由一《愛宕遠望》、赤羽根橋を描かない鹿子木孟郎《赤羽風景》が確認できた。一見すると名所図会と異なる描写をするものは由一作品に多いようにみえるが、詳細な検討には至らなかったため、今後の課題としたい。3.高橋由一《中洲月夜の図》についてまず、本作の来歴を確認しておく。明治6年(1873)、高橋由一は画学場天絵楼(のちに天絵社、天絵学舎と改称)を創設するが、この画塾では明治9年(1876)10月から明治14年(1881)2月まで、毎月第一日曜日に教員・塾生の作品を一般向けに展覧した(注14)。明治11年(1878)11月、この天絵社月例油絵展に《中洲観月の図》の題で出品されたものが本作とされている(注15)。翌年、由一は天絵社拡張の資金を― 177 ―― 177 ―

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