鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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得るため、高崎正風という人物の仲介で35点の油彩画を金刀比羅宮に奉納し、これによって200円を得ている(注16)。このときの奉献作品一覧(注17)によれば「竪壱尺七寸横三尺八寸」(メートル法に直すと約51.5×115.1cm)とされる作品のなかに「中洲月」の表記がみえ、これが本作であると推察できる。同年に開催された琴平山博覧会には由一による油彩画が37点出品されており、出品目録に《中洲月夜之圖》と記載されているものが本作であると考えられる(注18)。琴平山博覧会の会場となったのは金刀比羅宮 表書院であり、由一の作品群は「鶴の間」の長押に掛けられていたとされる(注19)。由一による出品作品の多くは規格の寸法から外れた横長であり、その理由として伝統的な和風建築に掛けることを想定していたことが指摘されているが(注20)、表書院は長押の上部にあたる小壁に十分な高さを備えており、横長の作品を展示するのに似つかわしい場所であったといえるだろう〔図2〕。次に、由一が本作で題材とした場所「中洲」について概要を確認していく。隅田川・堀留川・箱崎川の三河川が交叉する浜町三丁目東南の辺りは「三叉(みつまた)」と称されていたが、この付近は潮流が分流するため浅い瀬となっており「中洲」とも称された。この場所を安永元年(1772)に埋め立てた土地が中洲新地であり、夏の川涼みなどで賑わい、料理屋や茶屋が軒を連ねていた(注21)。しかし、埋め立てによる洪水の増加と、倹約を求める寛政の改革の影響を受け、1789年(寛政元)に撤収された(注22)。『江戸名所記』〔寛文2年(1662)〕と『隅田川両岸一覧』〔享和元年(1801)〕に「三俣」、『絵本江戸土産』〔嘉永3~慶応3年(1850~1867)〕に「中洲 三つ俣」、『江戸名所図会』〔天保5~7年(1834~1836)〕に「三派」、『狂歌江都名所図会』〔安政3年(1856)〕に「中洲」の記載が確認でき、中でも『江戸名所記』や『江戸名所図会』など比較的初期の名所記、名所図会には月見の名所として記される。同時に、全盛期には納涼の花火でも有名であったようだ。浅井了意は『江戸名所記』において「常はいましめらるる事なれど、今夜ばかりは三俣に花火をゆるされ(中略)月と花とをならべてみる」と記している(注23)。中洲を描いた作品は管見の限り14点が確認でき、永代橋を画中左手に配し、州を中央から右手に収める構図が基本であったことがわかる。ここで注目されるのは、寛政元年(1789)の中洲新地撤収の前後で画面の様子が大きく変化している点である。具体的には撤収前の作品は茶屋の提燈や屋形船の光、打ち上げ花火など賑やかな納涼の風景を描いており、当然ながら夜景である。歌川豊春「浮絵深川永代涼之図」、司馬3-1.「中洲」という名所― 178 ―― 178 ―

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