⑱ 明治期京都における水彩画の展開─関西美術会会員による水彩画の制作と波及─序研 究 者:早稲田大学 非常勤講師 石 井 香 絵西洋で伝統的に油絵の下図やデッサンに使用されるなどの補助的な役割を果たしてきた水彩画は、18世紀半ばにイギリスで独立した絵画技法として流行した。日本においてこの画法は西洋由来の画材と技術を用いた表現として幕末から導入されたが、油絵とは異なる魅力と手軽さが注目され本格的に流行したのは三宅克己が明治32年(1899)に滞欧・滞米作を第4回白馬会展に出品し、明治34年(1901)に大下藤次郎が『水彩画之栞』を出版してから後の明治末頃までの時代である。京都で水彩画が台頭したのも同時期であったが、当時の京都は水彩画に限らず洋画全体が進展した時期にあたっており、三宅や大下の活躍に端を発する流行現象に包括されない水彩画の役割および発展が見られた。京都は明治34年に京阪の洋画団体である関西美術会が結成され、明治35年(1902)に京都高等工芸学校の開校、明治36年(1903)に洋画の教育研究機関である聖護院洋画研究所の開塾、明治39年(1906)に関西美術院が開塾し、東京に次ぐ洋画の中心地として充実の時を迎えている。しかしもとより洋画に馴染みの薄いこの地での活動は容易でなく、西洋画の普及という点で水彩画の果たした役割は大きかった。京都で水彩画を描いた最も重要な存在が浅井忠である。浅井は画業の初期から水彩画を多く手がけ、明治29年(1896)には後に相次いで出版される水彩画の技法書に先んじて中等教育向けの『彩画初歩』や初等教育向けの『彩画入門』を刊行している。その技量は明治34年から35年にかけてパリのグレー村を描いた優品に結実し、帰国後は京都に移住し滞欧作や京の景色を描いた水彩画で後進に多大な刺激と影響を与えることとなった。水彩画は京都洋画を特徴づける主要ジャンルとなり、浅井の存在はその影響と発展において重要な一角を占めている。しかしその一方で、浅井ひとりに留まらぬ多様な人流によってこの地の水彩画表現が展開したことも事実である。とりわけ伊藤快彦、牧野克次、鹿子木孟郎、河合新蔵、織田東禹、織田一磨など東京の洋画団体である明治美術会、太平洋画会、洋画塾不同舎と関わりの深い画家の名が挙げられる。本研究ではこれら京都洋画の地盤を固めた初期の洋画研究教育機関出身者による水彩画作品を中心に調査を進めた。日本の水彩画および近代的風景画が円熟期を迎えた時代と同時期にあたる京都洋画の動向に着目し、本国の水彩画受容と発展の一側― 186 ―― 186 ―
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