注⑴ 山田敬中「美術展覧会の今昔」『研精美術』107号、研精美術会、大正5年6月的、寓意的な画題の作品はほとんどなく、日本絵画協会時代には「この頃はしきりに理想とか心持とか申す事がやかましく、何んだか説明しにくい画題などを掲げてその看板の下に自分の力の足りない所を隠して居る様な作家もある様ですが、是は実に技術家として極なさけないわけです」(注9)と明確に否定的な見解を述べている。また洋画の分野に目を移せば、すでに明治20年代から明治美術会を中心に、佐久間文吾筆《和気清麿奏神教図》〔図16〕や印藤真楯筆《古代応募兵図》〔図17〕(いずれも皇居三の丸尚蔵館蔵)のように、歴史上の人物をクローズアップして迫真的な感情描写とともに表現する、まさに「熱い歴史画」風の作例が目立つことに気づく。この洋画で先行していた「熱い歴史画」の流れが、徐々に日本画にも浸透してきたという見方もできるだろう。さらにグローバルな視点で語るなら、18世紀末から19世紀前半にかけてフランスを震源地としてヨーロッパ全域へと広まった、規範に則った古典主義から個人の感情を露わにするロマン主義へ移行する流れが、半世紀遅れる形でようやく日本に到達したとも言えるのである。いずれにせよ、この歴史画のパラダイムシフトの結果、丹陵はどれだけ制作に注力しても自分が思うほど評価につながらないもどかしさの中で苦しむこととなった。丹陵が明治40年の第1回文展へ《大宮人》〔図8〕を出品したのを最後に、主要な美術展への出品を一切取りやめ30代半ばにして中央画壇から距離を取ることとなったのも、自身の目指す先に光明が見えない失望が丹陵の心を占めていたように思えてならない。ただし壁画《大政奉還》は、葛藤を抱えて中央画壇から距離を置いた後の丹陵が、5、60代をかけて描き上げたまさに集大成とも言える作品であり、丹陵作品としては唯一の透視図法を用いて美しく整理した画面構成には、迷いを捨て「冷たい歴史画」を最後まで突き詰めていった丹陵の晴れやかさを感じることができる。《大政奉還》を完成させた年に丹陵は次のような言葉を残している。「自分は世を離れてゐるが、世を棄てたわけではない。芸術は生涯のものだから、自分としては自分の満足行くまでやる。人に見せやうためよりも自分の気のすむまでやりたい」(注10)。時代の大きな流れを変えることはできなくても、その中で愚直に自己の芸術を突き詰めていった画家の姿がそこにはある。― 7 ―― 7 ―
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