鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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面を明らかにすることを試みる。関西美術会結成まで京都で早い時期から西洋画の創作と教育活動が行われたことは、主に田村宗立が幕末から西洋画法の習得に邁進した事績や、明治13年(1880)に開校した京都府画学校に西宗(西洋画科)が設けられたことで知られている。宗立は明治8年(1875)第4回京都博覧会に水彩画3点を出品し妙技賞銅牌を受賞しており(注1)、以後京都博覧会や内国勧業博覧会などで油彩画、水彩画、日本画の出品を続けている。明治12年(1879)に京都で開催された最初の西洋画の展覧会「油画展観」ではチャールズ・ワーグマン、守住勇魚、田村宗立、幸野楳嶺による水彩画7点が出品されている(注2)。また伊藤快彦は自身が西洋画に触れた最初の体験として、外国人が水彩画で写生していた様子を挙げている。伊藤は明治8年頃にあたる7、8歳の年に、清水寺の子安塔を外国人が水彩で写生するのを覗き、極彩色の優雅な塔がさながら紙に浮かぶ手際に不可思議な感情を抱いたという(注3)。水彩画は西洋画の一技法として制作され展示されていたし、近代化政策で多くのお雇い外国人が招かれた京都は他地域に比べれば水彩画や油彩画に触れる機会に恵まれた土地であった。京都府画学校西宗の修業課程も工部美術学校や同時期の洋画塾と同様に、水彩画の学習が組み込まれたものであった。西宗の定義は「罫画油絵水画鉛筆画等」で、3年間の課程では後半に「臨画(景色画、水画)」「口授(水画顔料調和法)」「写生(水画)」とあり水彩画の指導と実践が設けられている(注4)。その成果ともいえる西宗の在学生10人が明治19年(1886)から20年(1887)にかけて描いた琵琶湖疏水工事の写生図《琵琶湖疏水工事之図》(宮内庁書陵部蔵)〔図1〕と西宗の教員であった田村宗立が明治20年に同様の様子を描いた《琵琶湖疏水工事絵図》(琵琶湖疏水記念館蔵)は、現存する京都で描かれた最初期の水彩を用いた写生図である。しかし鉛筆画に彩色を施した本作は、どちらかといえば鉛筆による線描が主体の記録画であり、今日想像する水彩の風景表現とは趣が異なっている。宗立の水彩画は他に京都国立近代美術館が所蔵する制作年不詳の風景画が現存しているが〔図2〕、輪郭線を用いず光と奥行が意識された本作のような描写の方がおそらく同時期の京都博覧会などの出品作に近かったと思われる。京都の洋画家は明治20年代後半から30年代にかけて、徐々に厚みを増していった。明治23年(1890)に日本画家を中心に結成された京都美術協会に参加し、大阪の洋画家たちと共同で展示や会合を重ねることによってその活動の幅が広がり認知度も高― 187 ―― 187 ―

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