まっていった様子が窺える。京都では田村宗立と伊藤快彦に加え、明治31年(1898)頃には櫻井忠剛が兵庫から京都に移住しているし、小笠原豊涯や中林僊の名も見られる。さらに大阪を拠点とする松原三五郎、山内愚僊、牧野克次らも加わり京阪の洋画は活性化されつつあった。なおこうした洋画家たちは関西出身である場合が多いものの、東京の洋画塾などで修業している者が大半である。画学校西宗は明治23年に廃止されており西洋画を学ぶ機関は東京に集中していたためで、この時期の関西洋画の動向は東京で発展した洋画の地方展開としても位置付け得るだろう。当時の京都には浅井忠のような水彩画というジャンル、あるいは洋画壇そのものを牽引する者は存在しなかったが、洋画家の動きは活発化し、油画以上に水彩画を制作する画家も複数人確認できる。東京では明治20年代前半からイギリスの水彩画家アルフレッド・イースト、ジョン・ヴァーレー、アルフレッド・パーソンズが相次いで来日し、アメリカで絵を学んだ高橋勝蔵が帰国したことで水彩画の人気は徐々に高まっており、明治30年(1897)の明治美術会第8回展では油彩画が131点、水彩画が137点出品され水彩画の点数が油彩画を上回る結果となっている。一方京都では京都美術協会が明治28年(1895)から毎年新古美術品展覧会を開催しており、洋画家の出品は年を追うごとに増加していった。初年度の洋画家の参加は伊藤快彦のみだったが、次年度明治29年は3人、明治30年は5人が出品しこの年は田村宗立が審査員を務めている。明治31年には出品者が16人と一気に増加し、出品区分は「絵画之部」から独立して「油画水彩画之部」に新たに区分分けされた。明治32年(1899)には24人、明治33年(1900)には31人と出品者は多数に上り、洋画家の審査員や受賞者も増えこの地での洋画の存在感は高まっていた(注5)。出品区分に「油画水彩画之部」とあるように、洋画家が出品したのはほとんどが油彩画か水彩画であった。当時の出品目録や展評には画材が明記されない場合が多いため完全ではないが、確認できる範囲で明治28年から34年までの京都新古美術品展に水彩画を出品した洋画家に伊藤快彦、三井耕夫、白井辨次郎、谷川直惟、中林僊、織田東禹、織田一磨、高田節、清水晋一、横山常五郎の名が挙げられる。伊藤快彦と伊藤の門生であった中林僊は関西美術会結成後も同会の主要メンバーであり、特に中林は後に京都洋画壇の水彩画作者を代表する一人となった〔図3〕。石版画家でもあり東京と大阪を活動拠点とした織田東禹と弟の織田一磨の出品も注目される。織田東禹の現在知られる代表作は明治40年東京勧業博覧会に出品した水彩画《コロボックルの村》であるほか、翌年に制作された《舟大工(堀切付近)》〔図4〕も現存している。― 188 ―― 188 ―
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