後述する第一回関西美術会展覧会では「甚平ノ渡」「須磨ノ浦」などの水彩画を出品し、傑作として非凡を認められたという(注6)。織田一磨は以後も水彩画を得意とし明治37年(1904)に『水彩画法』『水彩画手本』、明治42年(1909)に『水彩画帖』を出版している。なお現物は確認できないが、『水彩画帖』の広告頁によれば織田東禹も同時期に大阪の風画を中心とした『水彩風景画』全4篇と動植物を描いた『水彩花鳥画帖』を武田交盛館富田文陽堂から出版している。その他の名はいずれも経歴不明だが、三井耕夫、白井辨次郎、谷川直惟は同展や関西美術会展覧会に何度も出品しており、活気付く京都洋画壇を支える一員であったと想像できる。油彩画が主流であったものの、洋画家の台頭とともに水彩画を手がける者が目立ちはじめた時代であった。関西美術会の結成関西美術会は明治27年(1894)に第一次、明治29年に第二次が大阪で結成されたというが、いずれも長続きせず、第二次結成時に大阪で松原三五郎、山内愚僊、松本硯生、櫻井忠剛、鈴木蕾齋らが洋画展覧会を開いたという記録以外に具体的な情報は伝わっていない(注7)。明治34年6月16日に京都で発会式を挙げた関西美術会は都合三度目の結成であったが、第三次関西美術会(以下関西美術会)は上述した機運に加えそれまでの美術団体に倣った組織づくりがなされ、本格的な画壇としてこの地に洋画が根付く基盤を形成することとなった。同会の会頭には中沢岩太、幹事に金子錦二と大澤芳太郎が就き、委員に就いたのが洋画家である田村宗立、櫻井忠剛、伊藤快彦、牧野克次、松本硯生、山内愚僊、松原三五郎の7人であった。会の結成時には14条の規則案が出されたが、本研究で注目すべきは以下の第1条と第3条である(注8)。第一條 本会は本邦に於ける泰西画の振興を図るを以て組織す第三條 本会の事業左の如し 一 展覧会并に競技会を開き斯業に関する事項を研究すること 一 斯業に関する演説又は講和会を開くこと 一 博覧会共進会等出品に関する便宜を謀ること通常明治34年という年は、西洋画という技法や思想および洋画家という存在が既に― 189 ―― 189 ―
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