油画 春 櫻井忠剛 水彩画 渓流ノ図 田村宗立 水彩画 清流洗馬ノ図 牧野克次 水彩画 夏ノ海浜 牧野克次 油画 老人ト子供 松本硯生 水彩画 清水寺ノ景色 浅野房次郎 水彩画 深林ノ図 中林僊この他褒状に海東久、大塚作次、亀井鑑太郎、大塚知三、塚口正彦の名が挙がっている。会員相互の評価において、水彩画は油彩画と同等の位置にあった様子が窺える。なお三等の櫻井の油画はおそらく扁額または衝立などの形態だと思われる。関西美術会の活動はその後、11月に明治美術会と京都彫技会との大規模な連合展覧会(第1回関西美術会展覧会)の開催、翌年3月に批評会の開催、4月に新古美術品展覧会の出品、明治36年3月に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の出品と続いている。京都で水彩画の出品点数が本格的に増え始めるのは浅井忠の移住後初となる明治36年11月の第2回関西美術会展覧会以降であるが、水彩画を主力とする傾向はこれら初期の時代から現れていた。浅井忠の影響とその後浅井忠が京都に転居したのは明治35年9月であったが、この年秋の展覧会は第5回内国勧業博覧会準備のためという理由で開催されていない。第2回関西美術会展覧会は浅井が移住して約1年2ヶ月経った時期に開催されており、出品者はそれまでの関西美術会展覧会や批評会、あるいは新古美術品展覧会から大きく様変わりしていた。京都高等工芸学校は明治35年9月に入学式を挙げ、浅井は教授に着任し図案科の画学実習を担当している。同年4月に大阪から転居していた牧野克次は助教授に、同時期に移住していた都鳥英喜は講師に着任した。図案科は木炭デッサン、鉛筆写生、水彩写生などの基礎教育を行うものだったが(注11)、学外の場でも浅井の元には指導を希望する若者が押しかけたため、浅井は明治36年6月に聖護院洋画研究所を自邸に開塾した。伊藤快彦、櫻井忠剛、牧野克次の画塾もこれに合併している。初期の塾生には伊藤門下であった加藤源之助、中林僊、梅原龍三郎(良三郎)、牧野門下の新井謹也、井上悌蔵、榊原一広のほか、日本画家であった芝千秋、小川千甕(多三郎)や澤部清五郎、安井曾太郎が通った(注12)。研究室の壁には浅井の滞欧時代の水彩画が数多― 191 ―― 191 ―
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