鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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く並び、塾生たちは大いに参考にしたという。第2回関西美術会展覧会に浅井は滞欧作の油彩画と水彩画を40点以上と、京都時代の作品《垂水の浜》(水彩)《淡路島》(水彩)《八瀬の秋》(油彩)《吉田村の秋》(油彩)を4点出品した〔図5〕。同展の出品者は聖護院洋画研究所の指導者と塾生が多数を占めており、田村宗立、伊藤、牧野、都鳥のほか上記の塾生の水彩による風景作品が目立つ並びとなっている。また本展には浅井に指導を受けた京都帝国大学、第三高等学校、京都高等工芸学校の学生職員による水彩画同好会である二葉会から200点あまりが出品された(注13)。翌年第3回展には京都高等工芸学校の学生であった間部時雄や霜鳥之彦(正三郎)、京都に移住した鹿子木孟郎とこの年大阪に仮寓していた河合新蔵も加わっている。浅井の移住に加えアマチュア層に及ぶ全国的な水彩画熱も重なり、新たな顔ぶれとともに京都の水彩画は明治36年から数年間が最盛期となった。浅井忠は水彩画について、「油絵に比すると簡潔だし、取材も容易で、素人の娯楽に適し、また小幅に収めることも易いので、由来濃厚を厭ふて簡潔を尚ぶ日本人には、自づから合ひやすいので、いづれ日本は水彩画ばかりとなりませう。然し水彩画の流行は、一転して油絵の趣味を感ずる様になるので、今後建築物の変化と相待て、洋画も追々と盛んになるでございませう」と述べている(注14)。京都において水彩画は表現上の魅力だけでなく、黒田天外が述べる扁額などの油彩画受容と同様に、日本人の趣向または日常空間への馴染みやすさを通じて洋画の理解を助けるツールとしての側面が期待されていた。京都でその後水彩画のみを専門とした画家は多くは出なかったし、春鳥会のような水彩画研究を主軸とする団体も成っていない。水彩画はこの地で独立したジャンルとしてではなく、洋画家の主要な表現技法のひとつであり、西洋画普及のための有力な手段として定着していた。まとめに代えて近代京都の水彩画は浅井忠とその影響下において語られることしかなかったが、細かく見れば当時の様相は決して一人の画家のみの影響で成り立ってはいないことが分かる。たとえば京都の水彩画の展開において、重要な画家の一人といえるのが伊藤快彦である。伊藤は水彩画の現存作が少ないため看過されているが、後に浅井の指導で水彩画の技量を開花させた中林僊と加藤源之助は元々伊藤門下であり、特に中林は浅井と接する前の明治20年代からその才覚を発揮していた。また伊藤門下であった浅野房次郎(快泉)は私立桃山中学で明治41年(1908)から大正14年(1925)まで図画教師として水彩画を教えている(注15)。伊藤が中等教育向けの水彩画教科書として明― 192 ―― 192 ―

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