注⑴ 『明治期府県博覧会出品目録 明治4~9年』東京文化財研究所、2004年参照。⑵ 島田康寛「京都における明治初期の洋画の状況」『三の丸尚蔵館年報・紀要』6号、1999年参照。⑶ 原田平作『叢書「京都の美術」Ⅱ京都の洋画 資料研究』京都市美術館、1980年、62-64頁参照。⑷ 『百年史 京都市立芸術大学』京都市立芸術大学、1981年参照。⑸ 『京都美術協会雑誌』41、42、47、48、59、60、71、72、83、84、95号(京都美術協会事務所、治35年4月に出版した『水彩画初歩』一之巻と明治38年3月に出版した『水彩画初歩』第1~4編からは、早い時期からこの媒体に長けていた様子が窺える〔図6、7〕。伊藤はアルフレッド・イーストらが来日し水彩画の展覧会を開いた時期に上京しており原田直次郎の画塾鍾美館の門下生であった。画塾で大下藤次郎や三宅克己とは時期が重なっていないものの、明治27年に三宅が京都を写生旅行で訪れた折は伊藤が万事世話をしたという(注16)。伊藤にとって余技や習作でない水彩画作品の追究は身近で重要な関心事であっただろうし、残された作例から想像する以上に多くの作品を手がけていたと考えられる。京都で洋画教育を受け、その後この地を離れた者に目を向ければより多彩な表現形態を挙げることが出来る。京都府画学校西宗の卒業生まで遡れば後年の矢野倫真や角井厚吉に水彩画の秀作が見られるし、京都高等工芸学校図案科の卒業生では第一期卒業生である村山順の名をまず挙げるべきだろう。村山は在学中二、三年次に特待生として授業料を免除され、明治37年の関西美術会展に出品し、卒業後は図案科実習補助を務めるなど優等生であった。しかし明治39年頃に牧野克次と霜鳥之彦の一足先にアメリカに渡り、コーネル大学での勤務を経て大正10年(1921)にナショナル・ジオグラフィック・ソサエティの最初の専属イラストレーターとして昭和16年(1941)まで多くの水彩による動物図を手がけたことはあまり知られていない(注17)。透明水彩の明るさを保ちながらも浅井の画風とは異なる細密な描写は同時期の『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン』の挿図〔図8〕として発揮されており、京都での洋画の教育研究機関の成果として注目に値する。前述した織田東禹と織田一磨は京都の水彩画が全盛期を迎える直前の京都新古美術品展や関西美術会展に出品を重ねていたし、浅井の没後についても大下や丸山晩霞らと水彩画の普及に中心的な役割を担った河合新蔵が明治42年(1909)に京都に定住するなどの新しい流れが起きている。以上述べた画家たちは画壇から離れていたり水彩画の現存作(特に制作年の判明している現存作)が少ないため評価されにくい状況にあるが、京都で起きた水彩画流行の重要な側面として再考の余地があると考える。― 193 ―― 193 ―
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