鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
21/712

⑹ 村田(ママ)丹陵「予は其生活を芸術化したい」『研精美術』92号(臨時号)、美術研精会、大※ 近代歴史画の変遷については、東京文化財研究所の塩谷純氏より示唆に富むご意見を賜ったこと⑵ 「秋季美術展覧会褒賞贈与式」『読売新聞』明治25年11月4日⑶ 公文書「第2回青年絵画共進会景況報告」明治26年6月21日起案、東京都公文書館蔵⑷ 「再生前の美術院」『中央美術』2巻10号、中央美術社、大正5年10月⑸ 「(文展)第一回展が終ってから岡倉覚三先生が雅邦氏を擁して文展を退き玉成会を結成したりしたゴタヽヽがあったりしまして、丹陵先生は何となく世をはかなんだといふ様な有様でそれから段々と世間との交渉も少なくなり、一と頃のあの華やかさが忘れ去られた様に薄れて了ったものでした」野田九浦「丹陵先生の事ども」『美術日本』6巻2号、美術日本社、昭和15年2月(括弧内筆者)⑺ 今回、砂川家での資料調査、丹陵邸調査、そして文献調査を行い、ここまで丹陵の生涯を明ら⑻ 岡倉天心が東京美術学校内に起こした衣装研究会(遂初会)では、「無我」「勇猛」「寒」「傲慢」などの抽象的な題が出され、下村観山、菱田春草、結城素明らが優れた作品を生み出していたという。吉田千鶴子「岡倉天心と東京美術学校」『岡倉天心─芸術教育の歩み─』展覧会図録、東京芸術大学・岡倉天心展実行委員会、平成19年10月⑼ 村田(ママ)丹陵「画界新彩」『早稲田文学』7年6号、早稲田文学社、明治31年3月⑽ 「安々園楽々荘閑話」『塔影』11巻11号、昭和10年11月正3年11月かにできたことは今後のさらなる研究につながる大きな成果と言えるだろう。を附記しておく。― 8 ―― 8 ―

元のページ  ../index.html#21

このブックを見る