鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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点は注目される。本作品は、制作から数年経った1919年にロンドンで初めて展示されるまで(注10)、日の目を見ない作品であったと考えられ、同時代の文献でも取り上げるものはほとんど見当たらない。しかしながら、ラブルールはキュビスムの様式を版画で実践した人物としても知られるが、本作における直線の多様や平面的描写から、これがキュビスム版画の最も早い作例に位置付けられる点は重要である(注11)。新たなキュビスムの方向性を模索する本作は、ローランサンの関与も作用して興味深い展開を示しているといえよう。3 ピカビア《マリー》(1917年)、《マリー・ローランサンの肖像》(1916-1917年)1914年、第一次世界大戦が開戦を迎えると、ドイツ人男性と婚姻関係にあったローランサンは敵国人とみなされ、フランスを追われる。そこで中立国スペインへ亡命し現地で親交を結んだのが、同じくフランス出身の画家フランシス・ピカビア(1879-1953)だった。元々パリで活動していたピカビアは、1913年に開催されたアーモリー・ショーを機に訪れたニューヨークに魅了され、写真家アルフレッド・スティーグリッツらと付き合うようになる。その後、戦火が迫る状況を受けて妻とともにスペインに拠点を移すと、ローランサンら同郷の芸術家たちと出会い、行動を共にするようになる(注12)。ピカビアは1917年、友人スティーグリッツが主宰する雑誌『291』を明確に意識した、『391』と題する雑誌をバルセロナで刊行する。ローランサンも同誌創刊時に詩と絵を提供するなど、初期メンバーとして名を連ねた。以降、ピカビアはローランサンをモデルにした作品を数点制作している。一つは、1917年3月刊行の『391』第3号に掲載された《マリー》である〔図4〕。同号は、亡命中のローランサンの不遇を象徴する詩「鎮痛剤」が発表されたことでも知られる。《マリー》では、4枚の刃をもつプロペラや、ダイヤルの付いた円形のオブジェなどが組み合わさった換気扇のような機械が描かれ、人間の姿は見当たらない。画面上方には「MARIE(マリー)」、プロペラの刃の後ろに「BARCELONE(バルセロナ)」の文字がみえ、画家を暗示しているとわかる。二つ目は、《マリー・ローランサンの肖像》という作品で、ここでもまた人間の姿は排除され、プロペラを備えた換気扇を想起させる機械が大きく描かれる〔図5〕。本作においては以下のような文字も読み取れる:「A L'OMBRE D'UN BOCHE(ドイツ人男のまなざし)/LE FIDÈLE COCO(忠実なココ)/IL N'EST PAS DONNÉ À TOUT LE MONDE D'ALLER À BARCELONE(誰もがバルセロナへ行けるのではない)/A MI-VOIX(小声で)」こ― 199 ―― 199 ―

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