鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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(Ⅰ)二歳ことが確認された。四天王寺本は、縦100.3cm、横38.3cmの絹本著色画である。箱書等は無く、その伝来についての詳細は不明である。東漸寺本と四天王寺本を比較すると、人物の傍に配された札銘の内容はほぼ同じであるが、画面下方の人物について前者は「白済縛士学哿」と記すのに対し、後者では「白済塼士学哿」としている。その他、東漸寺本では太子は繧繝縁の上畳上に立ち、その背後は松を描いた屏風とするのに対し、四天王寺本では太子は礼盤上に立ち、その背後は竹林と水辺を描く背屏とする点など、細かな点において違いが看取される。おおよそ四天王寺本は室町時代の16世紀頃、東漸寺本はそれを下る江戸時代頃の製作かと考えられることから製作時期の前後関係が推察できるが、上記に確認した様に両者の間に多数の図様の差異があることを踏まえたとき、東漸寺本が四天王寺本を直に写したものと即断することは躊躇われる。ただし、図様が特殊で限られたものであることから、同一の絵所または粉本など、共通した環境下で製作された可能性も認められる。以下、描かれた場面のうち二歳時、三十五歳時の場面について図様を確認し、聖徳太子略絵伝の中における東漸寺本・四天王寺本の特質について確認したい。二歳の場面では、上半身は裸で緋色の袴を着る聖徳太子が上畳上(四天王寺本では礼盤)に立って合掌し、傍に乳母が控える。これは、『聖徳太子伝暦(以下、伝暦)』に記される、太子が2月15日に東方に向かって合掌した場面を表したものである。聖徳太子絵伝の中における二歳の太子は床上に立脚するものが多いが、中には礼盤ないし枡形の上に載って描かれる例もある。奈良・橘寺の聖徳太子絵伝において、二歳像が高脚付の台座上に立った状態で描かれるのは非常に特徴的であるが、こうした様相は、画中の太子が説話上の存在ではなく、「南無仏太子像」へと変貌したことを示しているとする指摘がある(注2)。四天王寺本において太子を礼盤上に立つ姿で描くのは上記と同様の現象であり、ここには太子を信仰の対象と位置づける働きがあったものと考えられる。ここで、太子が拝する方角に描かれる日輪の存在について一瞥しておきたい。『伝暦』における当該場面の条には、2月15日の平旦、すなわち早朝において、東に向かって合掌することを記すのみであり、日輪について明確に記述されてはいない。あくまでも、早朝という時間的要素と、東方という方角的要素の同時に説示する役割として、― 209 ―― 209 ―

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