(Ⅱ)三十五歳日輪が描かれたと見られる。なお、二歳の場面における日輪が描かれるのは非常に限定的であったようである。例えば、聖徳太子絵伝を総覧するとき、管見の限りにおいて日輪が描かれる作例は石川県・本誓寺本と同・正雲寺本の2例のみであり、むしろ岐阜県・安福寺本、福島県・安照寺本といったような聖徳太子略絵伝に多く確認できる。二歳の場面に日輪が登場する初期の例と見られる茨城・上宮寺本(元亨元年〈1321〉成立)においては山々の間に日輪が描かれ、この山の端から現れる様子によって早朝であることが強調されている。ただし、時代が降下するにつれて山々が担う役割は薄れており、石川・本誓寺本や四天王寺本略絵伝においては山が十分な形を成していない。やがて四天王寺本と図様が近似する東漸寺本においては、山々が雲へと変わり、時間・方角を示すモチーフとしての日輪の意味は喪失している。聖徳太子は、三十五歳の時に推古天皇の求めに応じて勝鬘経を講説したとされ、これを主題とした勝鬘経講讃図が多数現存している。ただし、東漸寺本においては、一般的な講讃図に見られるような、袍に袈裟を纏い、冕冠を被り、手に麈尾を取る太子は描かれず、侍臣を以てその場面を示唆的にあらわすところに特徴がある。この東漸寺本における聴聞衆に着目するとき、侍臣のうち小野妹子と学哿の図像は講讃図における本図の系統を考える上で一つの手掛かりとなる。すなわち、妹子の図像には東漸寺本のように笏を持ち太子に目線を向けるものと、兵庫・斑鳩寺本のように身体を横に向けて笏の上下を持つものがある。また学哿の図像には、東漸寺本のように高年の姿で身体を画面に向かって正対させて笏の上下を持つものと、同じく斑鳩寺本のように壮年の姿で体を真横に向けて笏を持つものがある。これら妹子と学哿の図像に関して、東漸寺本の図像は、小野妹子、蘇我馬子、学哿、恵慈、阿佐太子、日羅によって構成される六侍臣の系統に、斑鳩寺本の図像は、六侍臣から阿佐太子、日羅を除き、山背大兄王を加えた五侍臣の系統に見られる。このうち前者の系統は、柄香炉を持つ真宗系の垂髪太子に付加して描かれることが多い点は、東漸寺本の製作環境を考える上で留意される。なお、東漸寺本に描かれる「蘇我大臣」と「馬子大臣」は、両者ともに蘇我馬子を指しているものと見られる。ただし、講讃図における馬子は、一般的に跪拝する姿で描かれることが多く、ここでは「蘇我大臣」が本来の馬子の姿に該当する。東漸寺本、引いてはその先例となる四天王寺本において馬子が重複し、且つ内一人が妹子と同様― 210 ―― 210 ―
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