の図像であらわされた理由は、おそらく絵師による誤りと見ておきたい。ここで、東漸寺本における勝鬘経講讃の場面において、四侍臣が本来の三十五歳の太子ではなく、二歳の合掌姿の太子に対して聴聞する姿勢をとる問題について考えたい。この東漸寺本の特殊な図様を考える上で、中世太子伝のひとつである四天王寺本の記述に注目する。ここでは、東方に向かって合掌し、南無仏と唱えた太子の手の内から舎利がこぼれ落ちた逸話の後に、以下のとおりに記される。抑、此御舎利之起リヲ申ニ、昔天竺ニテ勝鬘夫人ノ御時ヨリ、今吾朝ニテ三国化導之間片時モ御身ヲ不放給ハナリ、然レトモ日域之衆生殊ニ罪業深重ナル故ニ、此土ニ留ヲキ給ヘル、(注3)聖徳太子の掌よりこぼれ落ちた舎利は、太子が勝鬘夫人であった印度の時より中国、日本へと転生して化導する中で片時も身体より離さず、罪業深き当国において留め置いた三国伝来ものであると説く。この記述を踏まえた時、東漸寺本において、二歳時の南無仏太子が勝鬘経講讃の場面における太子を兼ねている問題に一つの見解が見出せる。すなわち、下部に描かれる4人の聴聞衆が付加されることによって、勝鬘夫人の転生であり同体とも言える太子の存在が暗示され(注4)、これによって二歳時に太子より放たれた舎利が、勝鬘夫人以来のものであることが表現されていると捉えることも可能ではないだろうか。講讃の場面が三朝体現の太子を示す機能については既に指摘されるところであるが(注5)、本図では太子が二歳像であることによって舎利が三国伝来のものであるという視点がより強調されているのであろう。2 旧鹿島郡域における聖徳太子信仰の広がり四天王寺所蔵の聖徳太子略絵伝と共通した図様を持つ作品が伝来した東漸寺は、茨城県の神栖市に所在する。この神栖市は、現在の当県における行政区分では鹿行地域に所在するが、近世以前は鹿島郡に属していた。当該地域には、同じく東漸寺における南無仏太子像の他、正福寺、歓喜院といった寺院において、室町時代~江戸時代にかけて造像された同種の像が確認される。茨城県には、彫刻、絵画を問わず、多数の聖徳太子の作例が現存するが、南無仏太子像に限定すると数点が知られるのみである。こうした状況を踏まえたとき、神栖市― 211 ―― 211 ―
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