近辺に南無仏太子像が集中して存在していること、また、二歳像を中心的画題とした東漸寺本がそうした地域に伝来したことは留意すべきである。ここで、神栖市近郊の南無仏太子像への信仰について考えるために、当市が所在する旧鹿島郡、ならびにその周辺における中世の宗教の様相について一瞥しておきたい。当地域は、古代以降連綿として、鹿島神宮を中心に人々の生活、信仰が成り立っていた。この鹿島神宮には、常陸に下向した親鸞が来訪したという伝承が残る。この伝承に関する真偽の程は定かではないが、実際に真宗鹿島門徒の拠点となる無量寿寺開山の順信は、鹿島神宮の神官中臣信親であったとされ、当地域における真宗の広がりが認められる。なお、鹿島門徒の無量寿寺は、現在本願寺派と大谷派による同名の2箇寺が鉾田市内に近在しているが、この両寺の付近に喜八阿弥陀堂という堂宇が存在する。ここには阿弥陀如来像、善導大師像、聖徳太子講讃像を描いた、15世紀に遡る三幅対の絵画が伝来する。中央幅の阿弥陀如来像は、正面を向いての48条の光明を放ち、その造形は真宗において懸用される方便法身像に類似する。また、聖徳太子講讃像において、聴衆は阿佐太子と日羅を加えた真宗に多見される構成であることから、本作品はおおよそ真宗の影響下において製作された聖徳太子信仰の所産と見られている。また、鹿島門徒の順信と同じく当該門徒に関係していた考えられる人物として、治承4年(1180)の宇治橋の戦いにて以仁王に付き従ったことで『平家物語』にも登場する筒井浄妙が挙げられる(注6)。江戸時代後期に著された『新編常陸国誌』によれば、浄妙は現在神栖市に所在する極楽寺周辺の生まれとされる。この極楽寺は、明治になってから寺地が移動しているものの、『遺徳法輪集』巻三、『大谷遺跡録』巻三における当寺の項には木造の太子像があったと記されており、現在もそれに該当すると思われる聖徳太子立像が存在している。このように真宗の痕跡が残る鹿島方面であるが、親鸞より三十年ほど遅れて常陸に下向した忍性の足跡も当地に確認できる。『性公大徳譜』によれば、関東に下向した忍性は、常陸での活動の拠点とした筑波山麓に至る以前の建長4年(1252)9月15日に鹿島社に詣でて3日間参詣し、法華経を献じている。この忍性による鹿島社滞在の影響によるものか、鹿島社周辺には律宗の寺院があり、そこで夏安居が行われていたことが指摘されている(注7)。同じく、忍性の鹿島滞在に付随する伝承として、延方普門院(潮来市)の『常州洲崎普渡寺地蔵菩薩由来縁起』には、忍性が鹿島神の神勅に従い、地蔵菩薩を三体彫刻してそのうちの一体を当寺に奉納したと記されている(注8)。― 212 ―― 212 ―
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