この他、旧鹿島郡の福泉寺(鉾田市)には、13世紀に遡る県内唯一の清凉寺式釈迦如来像が伝来する。加えて、隣接する旧行方郡の観音寺(行方市)には、文応元年(1260)に忍性が再興したとの縁起が残り、忍性時代に遡る銅造の如意輪観音像が現存している。この如意輪観音像を、叡尊・忍性による太子の本地としての如意輪観音信仰に結びつける見解もある(注9)。以上のように、旧鹿島郡の一帯には真宗、律宗が展開しており、双方の宗教的地盤を基にした太子信仰の所産が認められるのである。ここで、本論で問題としてきた東漸寺本の製作背景を探るために、当地域において南無仏太子像が伝来する東漸寺、正福寺、歓喜院がいずれも真言宗寺院である点に着眼して、茨城県南東部における二歳像に対する信仰の広がりについて確認したい。鎌倉時代以降、常陸国において荘園、公領に対する支配を拡大し、なおかつ交通の要所を掌握していった北条得宗家の外護を受け、真言律宗は活動範囲を広げていった(注10)。先に見た忍性伝説の残る延方普門院付近の潮来津が北条氏の所領であったと推測される点にそうした様相が見て取れるが、北条得宗家の滅亡に伴い、南北朝時代以降、常陸における律宗の勢力は衰退を辿ったとされる。そうした状況において、律と表裏の関係にあった真言密教の要素が表出し、後に真言宗三宝院流の分流である地蔵院流を相承した醍醐寺四十二代座主実勝に始まる実勝方へと具現化して常陸南西部の寺々に流布していくこととなる(注11)。鹿島社中の広徳寺は鎌倉時代末期に真言化した寺院として知られるが、室町時代になると先に見た聖徳太子孝養像を所蔵する極楽寺も真言宗へと転宗している。確かに、広徳寺の開山である法尓房覚仁は叡尊・忍性の西大寺流とは異なる北京律僧であり、極楽寺も元は天台宗であった点も踏まえると、必ずしも当地の真言宗寺院の前身を西大寺流の律寺であったと見なすことはできない。その一方で、同じく現在真言宗であり、忍性の足跡を残す延方の普門院に着目する時、その開山である乗賀は、西大寺流律寺であった可能性の高い小幡の宝薗寺(石岡市)三世吽賀の付弟であるという繋がりが見られる(注12)。なお、宝薗寺が位置する「北郡」が14世紀初頭に金沢称名寺領になっていることは、西大寺流律の展開を考える上で留意される。加えて宝薗寺は南北朝時代以降に常陸南西部から北下総へと実勝方を流出していく起点となっていたことも指摘されており(注13)、常陸における真言宗寺院の中には、西大寺流律宗との関係が見出せるものがあることも事実である。これまで見てきたように、北条氏の滅亡による律の衰退、それに伴う南北朝時代以降における実勝方の影響を受けた真言宗への転宗、そしてその実勝方の寺院の一部が― 213 ―― 213 ―
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