西大寺流律宗と関わりがあったことを踏まえると、延方普門院のように旧鹿島郡周辺の一部の真言宗寺院も、元は西大寺流律宗の要素を帯びていた可能性は十分考えられる。ところで、鎌倉時代後期に遡る南無仏太子像は、清凉寺式釈迦如来像と同様にその多くが西大寺流律宗と深く関わりがあった。文安5年(1448)成立の『太子伝玉林抄』「太子二歳御影最初形像縁起事」において、橘寺の敬願房が発願した像が二歳像の始まりだったと記されるが、この橘寺は忍性によって関東祈禱寺の一つに選ばれており、西大寺末寺になっていたと見られる。また、現在は浄土真宗寺院に安置されている大分・法専寺像が西大寺仏師法橋康成によって造像されている例に見るように、中世律宗周辺において多くの二歳像が製作されたと見られている(注14)。そうと見るとき、神栖市における南無仏太子像を伝える東漸寺、正福寺、歓喜院といった真言宗寺院が、元は西大寺流律宗の影響を受けた寺院であったと見るのも一つの試案として十分に想定できる。本論で取り上げた東漸寺本聖徳太子略絵伝が、複数の事績を描いていながらも、その中心となる主題は太子二歳時の場面であった。この南無仏太子に焦点を当てた絵伝が当地域に伝わった背景には、旧鹿島郡における西大寺流律宗の展開が背景にあったと見るのも一案であろう。おわりに本稿では、茨城県における聖徳太子の信仰と造形を探る研究報告の一端として、当県の南東部に位置する神栖市・東漸寺に伝来した聖徳太子略絵伝に着目した。ここでは、東漸寺本が四天王寺本と同一の図様を持つ作品であることを明らかにするとともに、本図が、三国伝来の舎利をもたらす存在としての聖徳太子を中心画題として描いたこと、ならびに茨城への忍性下向や北条得宗家の領地支配を受けて普及した西大寺流律宗を背景として、旧鹿島郡域の一部において東漸寺本に見られるような南無仏太子信仰が広まった可能性を提示した。なお、中世において四天王寺が聖徳太子信仰を基軸に、浄土信仰や舎利信仰を包括して活動し、南都、大和、京都とネットワークを駆使しながら聖徳太子絵伝を伝播する役割を担っていた可能性が指摘されている(注15)。そうした中で、四天王寺絵所は一つ注目される存在であり、当絵所において東漸寺本のような図像が発生した可能性も想起される。東漸寺本と同一図様の作例が四天王寺にある点は興味深いが、四天王寺本の伝来が不分明である以上、ここでは可能性を提示するに留め、今後の研究課― 214 ―― 214 ―
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