鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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の展覧会であった。ロンドンやモスクワ、ハンブルク、オスロ、ミュンヘン、マンハイム、プラハ、そしてニューヨークといった海外のあらゆるコレクションを網羅した本展の借用先は、12件のパブリック・コレクション、そして50件の個人コレクションを数えている(注5)。そのほか、レ・ローヴのアトリエの所有者であったマルセル・プロヴァンス(Marcel Provence, 1892-1951)やセザンヌの息子であるポール(Paul Cézanne, 1872-1947)の協力により、最後のアトリエに残されていた頭蓋骨やアモルの石膏像をはじめとする、セザンヌが静物画の制作において重宝した気に入りのオブジェ、そして最晩年に画家が用いたパレットなどの出品が実現しており、総点数が195点に及んでいることからも、40年以上にわたるセザンヌの画歴にかんするもっとも包括的な資料の総覧が提示されたと言えよう(注6)。ポール・ジャモ─新伝統主義と愛国的フランス美術史本展を含む、オランジュリー美術館における一連の展覧会の開催に際して指揮を執ったのは、ポール・ジャモ(Paul Jamot, 1863-1939)である。ルーヴル美術館絵画部門の学芸員として長年にわたって活躍したジャモの偉業は枚挙に暇がないものの、彼の手掛けた著名な展覧会として、「プッサンからコローまでのフランス風景画」(1925年、プティ・パレ市立美術館)(注7)、「フランス美術 1200-1900年」(1932年、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)(注8)、そして「17世紀フランスのレアリテの画家たち」(注9)(1934年、オランジュリー美術館)などが挙げられる(注10)。戦間期における愛国的なフランス美術史を編纂した立役者のひとりであり、フランスの美術に見出だされる「古典性」や「慎ましさ」を取り上げて、自国における歴史の連続性を主張したのが、その功績である(注11)。美術収集家としてエミール・ベルナール(Émile Bernard, 1868-1941)やモーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)の制作した古典主義的な作品に大いなる関心を抱き、彼らとの友情を培ったジャモは敬■なカトリック教徒であり、とりわけ宗教的な信念を共有するドニの提唱した新伝統主義の価値観を通じてセザンヌを理解していた。フォーヴィスムやキュビスムをはじめとする二世代にわたる芸術の起源として(注12)、あるいは人種や血統の異なるさまざまな枝を支えているオリーブの古い幹、すなわちエッサイの樹として(注13)、この機会にセザンヌの芸術が語られたいっぽうで、ジャモの指揮した本展の主催者たちによる力点は別のところに置かれていた。その趣旨を看破しているのが、『ルガルド』誌の展評である。― 229 ―― 229 ―

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