鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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は、19世紀の者のように、類似した造形の解決策に自然と導かれたのである。」(注35)という解説を行っている。エクスの太陽は彩られたマッスと鋭いエッジだけを物体に残してしまう。そこでは逃れられない光があらゆる顔料をいっせいに、同じところで高揚させるので、それらが互いに弱められて見えるようになる。そこでは地形や植生、そして人間の建造物が、並はずれた強靭さで繋がっている。[……]セザンヌに固有の、モティーフにおける形態の交響的な調和を初めて完全に彼に明かしたのがエクスの風景であるのは、限りなくありえる。それ以来、りんごの丸みやナプキンの襞において、そして顔の線と起伏において、いたるところで彼の目にはそれが浮かび上がった(注36)。南仏人、ラテン人としてのセザンヌ古典主義にまつわる芸術の起源と環境について、さらに踏み込んだ見解を示しているのが、ルーヴル美術館絵画部門副学芸員のルネ・ユイグ(René Huyghe, 1906-1997)である。本展では図録への執筆こそなかったものの、オランジュリー美術館に世界中からセザンヌの作品を集結させたのは、彼の貢献によるところが大きい(注37)。1932年のロンドンにおける「フランス美術 1200-1900年」展をジャモとともに組織したユイグは、自らが編集長を務めた『ラムール・デ・ラール』誌において、かつてこの雑誌に協力者として名を連ねていたガスケの地方主義的な見解(注38)を彷彿とさせる主張を展開している。輝かしく厳格なプロヴァンスの土地に移り、堅固で明確に決められた構造のなかで、自らと向き合い、いかなる直観の容易さも偶然も許容しないこの明晰な意志、あらゆる創造における完全な統制と責任のすべて、ある種の絶対的な真実への到達、ヴィンチやヴァレリーのそれのように、ラテン的な青年期の伝統に即して、彼は印象主義から離れざるを得ない。印象主義は北方の芸術であり、変化や拡散、束の間のものを描き留め、「現象」のほとばしりと向き合いその精神と輝きに降伏する運命にある。外観を好まないセザンヌは不動の真実を求める。変わりやすい印象に対して、彼は思考の法則の力を守りたいのである。すべてはこの、古典的な土壌から生まれた地中海のあらゆる要求であり、彼が印象主義を「美術館の芸術のように永続的なもの」にしたいと宣言し、表明しているものである(注― 235 ―― 235 ―

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