母の御宿りを巡る問題は西欧で長い間議論の対象となっていたが、17世紀以降のスペインで「無原罪の御宿り」の崇敬は熱狂的なものとなる。その大きな要因はグラナダにあった。16世紀末、グラナダでは、使徒の時代において既に聖母の「無原罪の御宿り」が信じられていたと示唆する一連の鉛版、「鉛の本(Libros Plúmbeos)」が「発見」される(注5)。当時のグラナダ大司教ペドロ・デ・カストロはこの発見の権威を利用し、「無原罪の御宿り」が教義として宣言されるように働きかけることを国王に促していく(注6)。結果として、1661年、教皇アレクサンデル7世はスペインの求めに応じ、聖母の御宿りの祝祭で祝われる内容を明示し、「無原罪の御宿り」の議論を終息させることとなった(注7)。グラナダでは17世紀前半に大学や大聖堂参事会、市議会などにおいて、「無原罪の御宿り」の教えを擁護する誓願が行われるようになっていた(注8)。大聖堂参事会と市議会の誓願を記念し、1634年にはアロンソ・デ・メナの聖母像を頂点とする《トリウンフォの記念柱》〔図3〕も完成した(注9)。ホセ・A・ペイナード・グスマンが述べるように、「無原罪の御宿り」の崇敬はこの時期のグラナダの社会に広く定着し、熱狂的なものになっていた(注10)。実際、1667年にグラナダで亡くなったカーノも遺言の中で、自身の救済をキリストにとりなすよう、「その存在の最初の瞬間に原罪の汚れなく宿された、この上なく神聖で常に乙女で、神の母である我らの貴婦人マリア」に嘆願している(注11)。聖母は「神の母」であると同時に、「原罪の汚れなく宿された」存在として周知されており、「無原罪の御宿り」の教えはグラナダにおいて自明のものとなっていたと理解できる。カーノの聖母像は、このような都市の社会状況を背景に、大聖堂聖歌隊の用いていた譜面台の上部に置かれるために制作された(注12)。当時、聖歌隊席は交差廊を挟んで内陣の向かい側にU字型に展開されており、譜面台もその中央に位置していた〔図4〕(注13)。聖母像は大聖堂空間の中軸上、聖歌隊席の中心の高所に置かれるよう計画されたのである。ビクトリア・キローサ・ガルシアとダビッド・ガルシア・クエートは、頂上にカーノの聖母像が想定された譜面台の設計を、アロンソ・デ・メナの聖母像が乗る《トリウンフォの記念柱》と関連付けている(注14)。《トリウンフォの記念柱》はグラナダにおける「無原罪の御宿り」の崇敬の高まりを象徴するものであり、その形式に類似した大聖堂のカーノの譜面台と聖母像にも、同様の記念碑的な役割が期待されていたと言えるのである。― 244 ―― 244 ―
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