鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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2.聖具室移転の動機「無原罪の御宿り」の崇敬が定着する17世紀半ばのグラナダの社会状況を背景に、大聖堂聖歌隊席の中心に置かれるために制作されたカーノの聖母像だが、すぐに聖具室に移されることになる。1656年3月に聖母像が渡された後、同年5月27日の大聖堂参事会で、この彫像は、「見られるように今日譜面台にある像の台座が切られ」、聖具室に移されるよう合意された(注15)。この後、カーノは1656年10月にグラナダ大聖堂の「受禄者(racionero)」の地位を剝奪され、マドリードの国王に宛てて三人称視点で嘆願書を記している。その中には彼が大聖堂で行った芸術活動についての記述があり、聖母像の移転に関しても次のように言及されている(注16)。美しい聖像安置台が頂上にくるこの譜面台の高所のために、彼[カーノ]は御宿りの聖母像を制作した。これは賞賛すべき彫刻であるので、参事会に見られると、参事会はこれを主祭壇のために保管し、受禄者[カーノ]に譜面台のための別の彫刻を作るよう頼んだ(注17)譜面台上部のために制作されたカーノの賞賛すべき聖母像は、参事会によって主祭壇に置かれるために聖具室に保管された。また、18世紀の参事会議事録や財産目録には、カーノの聖母像が聖母の祝祭の日に大聖堂内陣の主祭壇に置かれていたと記されている(注18)。そのため、参事会はカーノの美しい彫像について、聖母の祝祭の日に内陣の主祭壇にこれを置いて典礼を演出するために、聖具室への移転を決定したと分かる。従来、聖具室移転の動機に関しては、美しい彫像をより近くで見るためであったと考えられてきた(注19)。小さなカーノの彫像は譜面台の高所という離れた場所ではなく、より近くで見るのに適した作品であり、実際に聖母像が譜面台の上部に置かれることはなかったと述べる研究者もいる(注20)。しかし、聖母像の聖具室移転には、単に近くで見るためというだけでなく、聖母の祝祭の日に内陣の主祭壇に置いて典礼を演出するという参事会側の積極的な動機もあったのである。譜面台の上部には、代わりにカーノ自身の制作した、生まれたばかりの幼子イエスを抱く《ベツレヘムの聖母》の彫刻が置かれることとなった。グラナダ大聖堂は受肉に捧げられており、譜面台の安置台の頂上には《磔刑像》も配されていることから、キリストの人性や将来の受難を予感させる聖母子像は、譜面台上部を飾る主題として自然なものであった(注21)。しかし、前述した当時のグラナダの社会状況に加えて、譜面台の各部分の装飾に「無原罪の御宿り」の主題との関連性を見出すことも十分に― 245 ―― 245 ―

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