鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 武田恒夫「フリーア美術館蔵『州信』印『琴棋書画図』屏風」 (『在外日本の美術』四・障屏画 毎日新聞社 1980年)ではフリーア美術館所蔵の「州信」印の捺された「琴棋書画図屏風」、狩野山楽筆との伝承を持つ「山水図屏風」が、『特別展 近江の巨匠─海北友松』(大津市歴史博物館 1997年)および『開館120周年記念特別展覧会 海北友松』(京都国立博物館 2017年)で瑜伽山蓮台寺蔵「菊慈童図屏風」が、友松の前半生に位置付けられる可能性をもつ作品として紹介されてきた。⑷ 禅居庵の襖絵を建仁寺本坊襖絵よりも後の作期とする論として次が挙げられる。持丸一夫「建仁寺障壁画─友松画年代試論」(『美術研究』一五七 1950年)、武田恒夫「建仁寺の友松障壁画」(『障壁画全集 建仁寺』美術出版社 1968年)、河合正朝「友松/等顔」(『日本美術絵画全集』十一集英社 1978年)。『桃山絵画讃歌 黄金のとき ゆめの時代』(京都国立博物館 1997年)は、『倒痾集』が紹介されたのちの刊行であるが、その作品解説のなかで禅居庵襖について、「本坊画からやや遅れる制作と考えてよいだろう」としている。一方、『開館120周年記念特別展覧⑵ 河合正朝「海北友松の生涯と作画」 『障壁画全集』七 美術出版社 1968年110頁⑶ これまで友松研究の中で稜線の表現について述べられた例として、前掲注⑴武田恒夫氏の論文もとに、その最晩年期における表現の変遷を辿ろうとすると、推定作期と表現から受ける印象が必ずしも合致しないということが起きている。たとえば建仁寺塔頭禅居庵の襖絵は、友松様式の円熟をみせる作として、建仁寺本坊の襖絵よりも後に作期を置くことで諸論の一致を見ていた(注4)が、作期推定の手がかりとなる英甫永雄の詩文集『倒痾集』の記述が紹介されてからは(注5)、禅居庵の襖絵が本坊の襖絵に先立って制作されたと考えられるようになっている。友松の画風展開が進んでいると思われるのは禅居庵襖絵だが、落款や史料をもとに作期を推定してみると、禅居庵襖絵のほうが建仁寺本坊よりも早くに制作されたことになるということである。この一例に限らず、現存作品から知り得るのは最晩年と思われるある時期の様相のみであり、狩野派の画風との近接、あるいは離脱から推測される画歴には、検討の余地がいまだ多く残されている。ここでの考察において筆運びに注目をしたことにより、たとえば樹皮に似通った筆運びを用いるものが狩野松栄や長信、光信などの筆とされる作品のなかにも見出されたことを注視したいと考えている。友松の画業は元信、永徳との関係においてかつては想定されてきたが、近年はより幅広く当時の狩野派絵師の存在を考慮する見方もあらわれている(注6)。こうした画家たちが範としたもの、中国の絵の模倣や転写のあり方について慎重に考察することを含め、本考察を新たな端緒としながら、今後は友松若年期とみなされてきた作品についても詳細な観察をおこないたい。のなかで稜角にそって入れられる「隈どり」の手法に注目した部分がある。― 259 ―― 259 ―

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