鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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時代が下るに従って顕出する日本の伝統文化回顧的イメージについて、絵入り新聞の記事を調べると、古い幻想性への後悔の念ではなく、西洋化による消滅を危惧された伝統が新しい日本文化に根強く残っていたことに対する喜びと、それを探究していこうとするフランスの世論(注12)が反映されていることが分かる。これに共通するのは、日本の西洋化は表面的なものであり、その裏には先祖代々引き継がれる日本の精神(注13)が変わらず存在しているという見解である。1920年代における日本の精神に言及される際、着目されたのは日本の愛国心(注14)であった。自国の名誉や存続のために忠誠心をもって行動する精神を愛国心の定義とするなら、1924年12月20日のLIlにおいて名誉のために戦う武士の誇りを示すもの(注15)として掲載された16、18世紀の日本刀の鍔の写真は、近代化以前の武家の忠誠心が、近代日本の愛国心と結び付けられたことを示唆している。十九世紀末に『忠臣蔵』がジャポニザンの間で称賛された(注16)点を考慮すると、忠誠心と連関した愛国心は好意的に受け入れられたと思われる(注17)。総じて、1900年代から1920年代における絵入り新聞の日本表象は、西洋化以前の忠誠心が近代的な愛国心と連続しているように解釈され、親日的であったと言える。2.ビゴーの挿絵に見る海外情報誌および植民地新聞の日本表象19世紀後半から20世紀初頭にかけてLIlやLMiといった絵入り新聞に日本に関連する報道画を描いていたジョルジュ・ビゴーは、写真図版の普及や、日本の最新情報が入手困難になった自身の環境から、『ジュルナル・デ・ヴォワイヤージュ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』(以下Jdv)に転向する。1900年代は実体験から日本の習慣や逸話を挿絵〔図1〕で紹介していたが、1910年代になると訪日記者の話を基に日本風俗に関する表紙〔図2〕を描くことに専念した。しかし、Jdvでの活動も第1次世界大戦を境に見られなくなる。ビゴーがジャーナリズムの世界に再び登場するのは1916年2月以降、『ル・ミディ・コロニアル■■■■■■■■■■■■■■■■』(以下LMc)においてであった。LMcは主にフランスの植民地やそれに関わる報道、その他の海外情報を提供していた週刊紙で、パリとマルセイユを拠点に1904年から1944年まで刊行された。挿絵は大概最初のページのみに掲載されたが、ここでビゴーは亡くなる1927年まで絵を提供した。LMcにおけるビゴーの挿絵は全131枚に及ぶ(注18)。このうち、日本を描いたものは重複する1枚を含めて12枚である〔表2〕。最初の日本表象が掲載されたのは1918年4月、ヨーロッパで行われている戦闘を遠くから眺める日本人男性が「我々の順番はいつだろう」と介入を目論む様子が風刺された〔図3〕。同年11月にも《復活の夜明け!》― 15 ―― 15 ―

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