鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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6階の応接室の内装を、四島が選んだ西島伊三雄、野見山暁治、磯崎が選んだ斎藤義重、そして磯崎自身が担当することとなった(注9)。天井、壁、床の6面すべてに同心の正方形が繰り返され、トビア・スカルパのソファーが置かれた磯崎の応接室〔図12〕、《ウェイヴ 赤》《ウェイブ 青》《ウェイブ 白》(いずれも1971年)と横長の鏡が壁に設置され、ソファーや机も自身がデザインした斎藤の応接室、一方の壁に横長の壁画《朝》(1971年)、もう一方の壁にはその時々の作品を数点展示できるようにした野見山の応接室、子どもの四季の風景を描いた壁画と、隣の磯崎の応接室の正方形に対して、丸でまとめたいと丸みを帯びた照明、家具が選ばれた西島の応接室が誕生した。磯崎は「これまでの壁画は、できあがると作者からだんだん離れていく感じだが、こんどの部屋づくりは作家の常設展示場にし、将来もその作家の作品を持ち込めるようにしたい」(注10)と語っているように、実際、西島の応接室には、竣工から4年後に博多山笠を描いた壁画のパネルが設置され(注11)、竣工後も応接室と作家の関わりは続いていたようだ。応接室のある6階には他にも現役のアーティストによる作品が並ぶ。受付ロビーには、サム・フランシスの壁画が設置された。トップマネージメント室には高松次郎、サム・フランシス、斎藤義重の作品が飾られ、宮脇愛子の作品は6階のほか、1階にも設置されている。1975年には高松次郎の応接コーナーも新たに加わった(注12)。「サムの大作も、やはり当初から位置や大きさ、周辺の色彩や照明の計画も決めたうえで、あらためて制作された。建物の内部のひとつの場所が作品によって占有されるとき、場とその作品とが、可変な関係でなく、永続的な占有、つまり場の意味の確定を可能にするように、その場につながって作品が置かれるようにできるだけ配慮してある。」(注13)と語っているように、磯崎は、照明、周辺の色彩など作品が置かれる場所を非常に意識していたのがうかがわれる。磯崎は、本店竣工後、群馬県立近代美術館、北九州市立美術館を皮切りに、ロス・アンジェルス現代美術館(1986年)、水戸芸術館(1990年)と、美術館建築を数多く手掛けていく。様々な美術館を設計する中で、「第3世代の美術館」を提唱し、奈義町現代美術館(1994年)〔図13〕で具現化した。群馬県立近代美術館など、どのような作品にも対応可能な白い壁と可動壁を持ったホワイトキューブと言われる第2世代の美術館から、作品と作品が置かれる場所が切り離せないサイトスペシフィックな美術館を、奈義町現代美術館で宮脇愛子、荒川修作+マドリン・ギンズ、岡崎和郎と協同して実現した。現役のアーティストに装飾を依頼し、作品とそれらが置かれる場所が密接に意識されている本店の内装の試みは、後に「第3世代の美術館」を提唱する― 267 ―― 267 ―

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