鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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四島 興味をもちだしたのは磯崎さんと知りあってからですね。              [中略]野見山 磯崎さんは、抽象の絵を見せたりしたんですか。四島 いいえ、彼の作品で感じたんです。色の使い方や空間の切り方とか、そういうものに共感を覚えましたね。野見山 では、最初建築から入ったんですね。四島 いわれてみればそうかもしれませんね。」(注17)また「昨日、サム・フランシスという画家にあいました。新本店の応接ロビーに壁画をかいてもらうのですが、」(注18)とあるように、本店竣工の過程では、作品を生み出すアーティストとの出会いがあったのも大きいだろう。1979年には、「四島氏の現代抽象画への造けいの深さは有名。[中略]ロンドンやパリで作品を求めたり、中堅、新進の抽象画家が集まるニューヨークのソーホー地区に自ら足を運んで、アトリエの画家たちと美術談議にふけったりすることもある。」(注19)と、四島の抽象画への造けいの深さは広く知られるようになっている。「抽象の人は今生きてる人たちでしょう。そこに行って本人にも会えるし、アトリエに行って描いているところも見られるし、その中から選べるでしょう。そういうふれあいが非常に楽しいんですよ。」(注20)と語るように、四島が現役の作家のアトリエを訪ね、収集した作品が、本店内を彩ってゆく。こうして形成された四島コレクションは、主に戦後抽象絵画をコレクションの核とし、1999年時点では、二百数十点に上り、2割を福岡シティ銀行、8割を同行のグループ会社に当たる福岡地所が保有されるまでになる(注21)。自身が収集した作品を一般に公開したいという四島の思いは、早くも1970年代にはあったようだ。本店のロビーに四島が中南米を回った際に入手したダビッド・アルファロ・シケイロス《愛の渇き》(1960年)《パンの本》(1962年)が展示された際に、「『これをスタートに“四島美術館”に育てていきたい』と大へんな力の入れよう。」と報じられている(注22)。1992年には美術館建設が具体的となる。「既に建築家の磯崎新氏に建物の基本設計を依頼しており、93年中には設計を終え、94年にも建設に着手する。完成予定は97年。」(注23)とあり、四島が美術館の設計を依頼したのは、磯崎であった。しかしながら、建設予定地が住居地域にあたるため、美術館建設には用途変更の手続きが必要なことが判明(注24)。その後、美術館の構想は、「建設費が百億円かかることなどから、半年前に断念」(注25)され、1999年には、ジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステ― 269 ―― 269 ―

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