㉖ 耀県西牆村一帯出土造像碑における城池図(一)、荔非郎虎任安保六十人造像碑〔表2〕研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士後期課程 付 恩 浩陝西省耀県西牆村一帯に出土した数点の造像碑には「城」図像の線刻が施されている。本稿ではその構成や他地域図像との相異点を考察し、図像の系譜を明らかにしたい。造像碑とは石碑を用いて、碑身に龕を開き、尊像を浮き彫り、または線刻で表現した宗教的な媒体である。造像は碑の複数の壁面の狭い空間で行われる。さらに、信仰団体は構成員の名前や願いを文字化して碑に刻むことも多いので、高い研究価値を有する。耀県西牆村一帯で出土した造像碑のうち、西魏期の荔非郎虎任安保造像碑、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑、北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑はそれぞれ「城」の図像を有する。筆者は西牆村出土の造像碑を〔表1〕にまとめた。荔非郎虎任安保六十人造像碑座、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑の碑座にあたる雷伏娥荔非郎虎造像碑座を除くと、計八つの碑、碑座のうちの四碑が「城」の図像を採用したことがわかる。一、西牆村城池図の概況陝西省文物普察大隊と薬王山博物館が一九八七年、一九八八年、一九九一年に耀県一帯で行った三回に渡る共同調査において、北朝から隋時代の一四点の造像碑が発見され、調査報告を『考古与文物』に発表した(注1)。その後、西牆村出土の造像碑は陝西省銅川市内の薬王山碑林博物館で管理、収蔵されている。筆者が二〇二三年九月に現地で調査した時は、西牆村千仏造像碑(北魏)、荔非郎虎任安保六十人造像碑座(西魏)、西牆村仏道造像碑(北周)の三碑は銅川市博物館に移されていた。また、銅川市博物館と薬王山碑林館のどちらでも邑子一一五人造像碑を発見できず、銅川市外の他所に移していたと考えられる。まずは「城」の図像を採用した四碑を確認したい。四碑の構造を〔表2〕から〔表5〕にまとめてみた。それでは、各城池図像について確認しよう。碑陰の最下段に城の一角を表し、この段の中央に城門を設け、門の内側に三人の人物が線刻される〔図1〕。陝西省考古研究院では弟子像と称したが(注2)、城内の人物は冠を付け、襟がある大衣を纏い、弟子像とは考え難い。むしろ貴族や俗人の服装と見受けられる。門の右側にも城壁が線刻され、上部に辛うじて五人の頭部が確認で― 275 ―― 275 ―
元のページ ../index.html#288