鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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きる。城の下部にさらに一段を設け、枠の中に群像が配され、出行図と考えられる。(二)、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑〔表3〕続いて、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑の城池図を見ていこう。本碑では碑陰第三段の大きな空間を使って、城を表した〔図2〕。城の四面は城壁に囲まれ、城内に十五人の僧侶らしい人物がいる。四隅にそれぞれ楼閣があり、北と南の城壁の中央に楼閣を表す。楼閣は門が設けられ、楼閣の下に人字形斗栱を表し、同じ人字形斗栱は荔非郎虎任安保六十人造像碑の城の図像にも確認できる。城の周辺に堀を巡らし、堀の上には橋をかける。城の西面に一人の僧と二人の菩薩、南面には三尊の菩薩が線刻される。また、城の上部左右にはそれぞれ一体の坐像菩薩を中心に菩薩、眷属が配される。城から向かって右側の菩薩像には八人の僧人、左側の菩薩像に二人の僧人が、あたかも菩薩につき従うように周辺を囲む。西門と南門下部の堀部分はそれぞれ一人、三人の僧侶を表し、白文氏はこれに基づいて城池図を釈迦太子の「四門観遊図」という仏伝の一部であると指摘する(注3)。城が設ける三門のうち、北門が微かに開く表現がなされる。碑陰の一番下の第四段の左側には牛車と男女それぞれ二人の四人の付き人が闕を潜ろうとする場面が表され、一人の小児が闕の簾を揚げ、中に龍の姿があり、その右側は数人が塔を起こしている。(三)、邑子一一五人造像碑〔表4〕本碑は左碑身の下半部の一段に城池を浮き彫りした〔図3〕。城の外部は高い壁が聳え、壁の内に屋根、角楼などが線刻され、城周辺に堀を巡らす。微かに輪郭線が残る程度ではあるが、城の下部、右側に一体の如来立像が確認できる。光背を表し、右手を前に伸ばし、施無畏印を結んでいると見受けられる。城上部の閣楼部分では破損が激しく、輪郭線から、梁の両端左右に二体の如来像が対峙するのが辛うじて窺える。両像は肉髪を表し、左像は蓮座に座し、右像については台座の部分が破損したため、確認できないが、坐像と考えられる。二像のまわりに四体の比丘立像が囲み、そのうち三体に光背がある。本図の城は上から下へ、見下ろす視点の構図で表現されている。(四)、田元族造像碑〔表5〕田元族造像碑も碑陰下部に城池が刻まれた〔図4〕。城は一角のみ表し、中央に城門を設けている。門の両脇にそれぞれ一つの墩台が突き出し、より広い角度で下から攻める人を狙い撃つために設けた、いわゆる「馬面」である。城門の後ろにさらに一つもっと大きい門が聳え立ち、『陝西省碑林薬王山芸術総集・北周造像碑』では瓮城の表現と指摘している(注4)。城内には植物模様が確認できるが、人物らしきもの― 276 ―― 276 ―

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