という題目で日本軍の介入を描いている〔図4〕。実際に日本が第1次世界大戦に参戦したのはその4年前であるため時間差があるが、大戦中の出来事と考えれば時事に沿った挿絵とみなされる。一方で、1920年代のLMcにビゴーが描いた日本イメージの大半は、時事とは直接関係しない。テーマは、国際連盟の状況を描写した風刺画とビゴーの追悼記事に添えられた画家の肖像画以外、西洋人目線の日本評価、具体的には日本の奇抜さや野蛮さ、官能性といった19世紀後半のオリエンタリズムを示唆するものが選ばれた。《日本の…少し前の流行》〔図5〕では、男女問わず上半身を露出する海水浴の情景を珍奇なものとして提示し、日本の不道徳性を表した(注19)。他にも、外国人居留地内のホテル内における日本人女性の売春を描き、西洋人の羽振りの良さを揶揄する(注20)《日本の生活風景》〔図6〕、新橋駅で目の前の日本人にやや困惑気味な西洋人一行が描写されている《日本にて.東京(日本)の新橋駅での下車》〔図7〕、そして西洋人男性と日本人女性との恋の終焉を描いた《純愛の終わり》〔図8〕が注目に値する。これらの滑稽画はいずれも西洋人に関連しているが、日本人との交流において不快な状況が生じていることを示唆している。1920年代の絵入り新聞で親日的な日本像が提示されていたことを踏まえると、同時代のビゴーの滑稽画が見せる日本像は対照的である。理由として推察されるのは、日本に対するビゴーの警戒心がある。ビゴーは日本滞在時から年々顕著になる滞日外国人への粗野な扱いを危惧し(注21)、ついにはナポレオン1世に扮した「日本」がアジア諸国を引き連れて西欧諸国に進軍する絵を制作した〔図9〕。帰国後も、1900年のパリ万国博覧会で日本から渡仏した芸者に魅了されたフランス人記者に「彼女たちから尊敬されたいならあまり丁寧に接しない方がよい」(注22)と助言したほか、Jdvにビゴー自身が寄稿した記事では、日本人の親切心は同胞に向けられているものであり、彼らとの取引には注意するよう呼び掛けている(注23)。これらの観点から1920年代のLMcにおける日本イメージは注意喚起のイメージであると捉えられる。以上をまとめると、ビゴーの日本表象は、掲載媒体がJdvからLMcへと移るに従って、日本の習俗からフランスの親日的な世論形成に対し警鐘を鳴らす表象に変化したと言える。結び本稿では、1900年代から1920年代フランスの定期刊行物における日本表象を見てきた。結果、西洋化以前の忠誠心が近代日本の愛国心と連動する親日的なイメージが流布する一方で、これに対して警告を発するイメージも少なからず存在したことが明ら― 16 ―― 16 ―
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