人造像碑、田元族造像碑の何れも碑陰の下部に城池を表し、邑子一一五人造像碑だけ左碑身の下部に城を線刻した。中で荔非郎虎任安保六十人造像碑、田元族造像碑は出行図と共に城の片隅の一角のみ表す。対し、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑と邑子一一五人造像碑は城の全体像を示した。構造上では、邑子一一五人、釈迦多宝二仏対坐説法両碑の城池は上から見に下ろす視点の構図で表現され、上部に仏像と付き従う弟子群像を配する意匠においても、両者は共通する。西魏期の邑子一一五人、釈迦多宝二仏対坐説法両碑の城池図内部に人物像が表現され、対して、北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑は城内には人物は表されない。また、西魏期釈迦多宝二仏対坐説法造像碑城池図は四つの碑の中で城が占める面積がもっとも大きいものである。四角の城壁に囲まれ、城内に数個の屋根が線刻され、城の左側二つの屋根が並べて彫られ、「対霤」の表現である。対霤はすなわち二つ楼閣が並んで建つことであり、『洛陽伽藍記・景明寺』の「山懸堂光観盛一千余間。交疏対霤。青台紫閣。浮道相通 」と『文選』卷五「呉都賦」「玉堂対霤、石室相距」から当時南北朝の建築では「対霤」の作法が用いられたことが分かる。麦積山一二七窟の天井東面の城にも二つ大きな屋根が重ねて描かれ、「対霤」表現と思われる。続いて、北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑の城図像に注目すると、両碑城壁上端の欄干には何れも正方形の穴が開く。これは外敵を上から狙い撃つ為に、欄干部分に開ける「堞口」である。城壁の堞口はよく雉堞に用いられた。雉堞は防御する際に身を隠すための梯形状のものである。雉堞様式の起源について、李静傑氏による詳細な研究がある(注6)。氏が指摘したように、雉堞は凸形に構成され、同様な構造はガンダーラ地域からはじめ、ササン朝ペルシアにも事例が見られる。中国では魏晋以後に徐々受容され、高台苦水口魏晋一号墓と酒泉丁家闕五号墓の塢璧図に描かれ、後に敦煌莫高窟北魏期の二五七、西魏二四九窟、北周二九六の城壁図にも雉堞図像が確認できる。張元林氏はさらにササン朝国王像の王冠やウズベキスタンサマルカンド考古博物館蔵舎利墓などの装飾品に線刻された凸形雉堞に着目し、西アジアにおいて凸形雉堞は「神聖性」を表すものと述べ、敦煌二四九窟の天井西部に配された城もこのような影響を受けてきたという見解をしめした(注7)。唐時代以前の城壁において雉堞モチーフは甘粛省より東には見られない。注目すべきなのは、西安市博物館蔵西安北郊出土北周天和五年(五六七)銘張石安造像碑座では山林の中、城門を中心に城の一部が線刻される〔図5〕。城内に角楼らしき聳え立つ建物があり、これについて、茹溪氏は舎利塔図像と指摘した(注8)。城壁の上部に欄干があり、西牆村― 278 ―― 278 ―
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