北周期碑と同様に、雉堞がなく、欄干に幾つかの堞口が設けられる。本事例も西安付近で発見された城の図像として重要である。西魏期の城図像には出現せず、北周になると張石安造像碑座と西牆村両碑のように、長安付近の城図像は城壁欄干の部分に堞口を開くようになった。雉堞はないものの、依然守備の機能を重んじるものとみられよう。馬面の表現について言及した田元族造像碑以外、邑子一一五人造像碑の城の部分も馬面の表現を施している。本碑の城の城壁に凹凸状に線刻され、それぞれが一つ一つの突き出す墩台に見受けられ、防御のための 「馬面」と考えたい。馬面の表現は他にも麦積山一二七窟天井左面の城壁や敦煌莫高窟の二五七窟西壁須摩提女因縁の城の部分に確認できる。西牆村西魏期造像碑の城池図に馬面の表現は見当たらず、堞口と同じように、北周期になってから造像碑を造営する工房が新たに取り入れた様式と考えられる。さらに、瓮城の表現については、早く東漢の古墳壁画から見られるが(注9)、北朝の事例の中では管見の限り、田元族造像碑城池以外に瓮城の事例は見当たらない。本事例は長安周辺の瓮城を理解する上でも重要である。北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑は西魏期の二碑よりも、新たに馬面、堞口、瓮城のモチーフを採り入れ、城の防御機能をより一層を強めた。題記で願われた「兵鉀休息」は戦争の頻発を物語る。西魏と東魏の間は小関、沙苑、河橋、邙山、玉璧という五度の大きな戦争を経験し、河橋で敗北を喫した際に、東魏の叛将趙青雀は一時的に長安を占拠し立てこもるという事態まで招いた(注10)。その中で、人々は守りのかなめ、軍事要塞をより重要視するようになった。西牆村のほか、甘粛省博物館蔵北周建徳二年(五七三)王令猥造像碑(注11)〔図6〕の像主王令猥には、「仏弟子堡主王令猥」の題記があり、堡は城の意味を持ち、本碑では城が組織単位としても用いられた。戦乱が頻繫な時代に城は重要な役割を担った。西牆村の城図像からもその様子の一端を伺えよう。三、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑城池図に見られる中国の伝統的図像洛陽遷都後の北魏後期から西魏にかけては仏・道・儒の融合が進む。釈迦多宝二仏対坐説法造像碑の城池図にもその一端を窺うことができる。本碑の碑陰城城部分の奥側に位置する城の北門は微かに開いてる。この表現は奈良国立博物館蔵ガンダーラの仏塔円胴部に彫られた仏伝中のカピラ城の城門にも見られる。後に焼溝六一号西漢墓、重慶沙坪前中大墓一号石棺、山東沂水後城子画像石、― 279 ―― 279 ―
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