鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
293/712

四川新津五号石棺などの前漢、後漢期の墓葬美術にも多数確認できる。半開の門の向こうから侍人が覗く、所謂「起門図」のモチーフは漢から明清まで墓室の造営に用いられた。南北朝時代以後、墓室以外に、地上にある道仏の造像にも半開する門の表現が散見される。敦煌莫高窟第二四九窟天井北面では阿修羅像が掲げる須弥山の山頂に城が構え、城には馬面、雉堞の表現が施され、両扉は微かに半開する。齋藤理恵子氏は『続高僧伝』の資料を引用し、仏教的天界に中国古来の天門の概念が入り込んでいると指摘した(注12)。北面にある半開の城門は「天門」のイメージが入り込んでいることが想定される。潼市出土馮萇寿道教造像碑碑陽の屋形龕部分で両扉が微かに開き、その隙間に侍人が立っている〔図7〕。釈迦多宝対坐説法造像碑城池図北面の半開する城門の表現もこのような流れのもとで造られた。また、本碑の城池図西面の角楼を登る一人の人物についても注目する必要がある。この人物について、陝西省考古研究院は「小児」と称したのみで、図像の意味や系譜について特に触れていない。「小児」像の頭の形や腕、足の彎曲具合は人より猿と類似し、また、南北朝時代において、人が城を登る図像は管見の限りないので、本稿では「小児」は猿として配されている可能性を提起したい。先秦から猿の図像はすでに誕生しており、東漢の画像石には猿が扶桑大樹や楼閣を登る場面がしばしば見られる(注13)。十六国南北朝時代になると、丁家闕墓〔図8〕、大同解興石椁の前壁壁画に猿が木を登る場面が描写される。一方で、この時期から楼閣を登る猿の姿が消え、北魏中期になると、樹登り猿は仏教図像にも取り入れられた。事例を詳細に示した〔表6〕が示すように、雲岡第九窟前室のシャヤーマ本生図では猿が樹の枝を両手で掴み、ボストン美術館蔵の北周菩薩五尊像(注14)の碑陰〔図9〕では猿が樹の幹を登る場面が彫られる。陝西省西安碑林博物館蔵北魏邑子六十人造像の碑陽台座の部分では、猿は如来が台座に垂らした袈裟の部分を掴み、上に昇っている〔図10〕。鄴城北呉庄出土東魏武定五年(五四八)銘弄女造弥勒像の碑陰の半跏思惟菩薩像を囲む双樹の幹の部分では枝を掴み登ろうとする子猿が彫り出され、ボストン美術館蔵五尊菩薩像(北周)の碑陰双樹の幹の部分にも同じように猿の表現が見られる。正倉院蔵鸚鵡﨟纈屏風も枝の部分に猿が描かれ、猿が樹を登る図像は日本にも伝わっていた。耀県周辺の作例では、石柱郷青龍村の邑子二百五十人造像碑碑陽の仏龕両側に山岳が彫られ、林の上端に鶴と猿が共に立つ。鶴も神仙世界と繋りの深いモチーフで、猿と共に描かれるケースが多い(注15)。釈迦多宝二仏対坐説法造像碑の城池図下部にも四羽の鶴が表されている。漢代以後の猿登りの事例を総覧すると、南北朝以後、屋根や角楼を登る猿図がなく― 280 ―― 280 ―

元のページ  ../index.html#293

このブックを見る