注⑴ 「耀県新発現的一批造像碑」(『考古与文物』一九九四年)⑵ 陝西省考古研究院、陝西省銅林市薬王山管理局『陝西薬王山碑刻芸術総集・西魏造像碑』(上⑶ 白文「造像碑的仏伝図─以薬王山碑林為中心」 (『敦煌学輯刊』 二〇〇八年第二期)⑷ 陝西省考古研究院、陝西省銅林市薬王山管理局『陝西薬王山碑刻芸術総集・西魏造像碑』(上⑹ 李静傑「雉堞及其来源考述」(『中原文物』二〇二二年第二期)⑺ 張元林「来自西亜的神聖性象徴─莫高窟第二四九窟凸形雉堞的図像探源」(『敦煌研究』⑸ 右碑身の造像願文は『陝西薬王山碑刻芸術総集・北周造像碑』(上海辞書出版者 二〇一三年⑻ 茹溪「西安博物館蔵天和六年仏造像座研究」(『南方文物』二〇二一年一月)⑼ 例えば、東漢内モンゴル林格爾漢墓の中室南壁に描かれた城も瓮城を設けていた。⑽ 『北史』卷六二「河橋之戰,王師不利,趙青雀據長安城,所在莫有固志。」(中華書店)⑾ 張宝爾『甘粛仏教石刻造像』(甘粛省人民美術出版社、二〇〇一年)二二〇頁⑿ 齋藤理恵子「敦煌第二四九窟天井における中国的図像の受容形態」(『仏教芸術』二一八号⒀ たとえば、四川瀘州十四号石棺、山東微山両城鎮永和四年画像石などの事例に見られる。なり、そのかわりに仏教造像に木登り猿の図像が取り入れられた。そのうち、釈迦多宝対坐説法造像碑の猿像は城の角楼を登り、十六国時代以前漢代の古い図像を受容したものと見受けられる。猿は、鶴や鳳凰としばしば一緒に表現されることが多く、吉祥の意味合いで図像が採用された可能性も配慮すべきであろう。おわりに本稿では、耀県西牆村一帯で出土した西魏期の荔非郎虎任安保造像碑、釈迦多宝二仏対坐説法造像碑、北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑における「城」の図像をめぐって考察してきた。北朝時代西牆村の信仰団体は城のモチーフを好み、出行図と共に造像碑に用いた。西魏期の造像碑より、北周期の邑子一一五人造像碑、田元族造像碑二碑は馬面、堞口、瓮城のモチーフを採り入れ、城に防御機能の意味をより一層強く与えた。釈迦多宝二仏対坐説法造像碑の城は四碑の中でも最も大きく造られ、半開の扉と猿が城璧を登る図像を登用し、古い墓葬美術に流行するモチーフを用いて、城を装飾した。城の図像を造像に取り入れることは、当時の陝西省耀県西牆村における明瞭な特徴であった。海辞書出版者 二〇一三年一二月)二七頁海辞書出版者 二〇一三年一二月)五三頁一二月)一四頁の翻字を参考にした。二〇二三年、第四期)二〇〇~二〇九頁一九九五年一月)三九~五六頁― 281 ―― 281 ―
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