鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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㉗ クシャーン朝期マトゥラーの弥勒像と造像背景に関する基礎的調査研 究 者: 日本学術振興会 特別研究員PD(京都大学)  打 本 和 音1.はじめに仏像の起源の地として指摘される、西北インドのいわゆるガンダーラと中インドのマトゥラーにおいて、クシャーン朝の統治下に数々の仏教美術が制作されたことは周知のとおりである(注1)。このうち西北インドでは、仏像や仏伝図とともに菩薩の像も数多く制作された。なかでも、釈迦に次いで次代のブッダとなるべく現在兜率天で待機中の未来仏・弥勒(Skt. Maitreya, Pā. Metteya)に関する造像は数多く知られる。その出土遺例の量や図様のヴァリエーションは、クシャーン朝下の西北インドにおいて弥勒信仰が豊かな発展をみたことを物語る。こうした西北インドで醸成された弥勒信仰は、その図像とともに中央アジアを経由して東アジアに影響を与え、さらなる発展をみせた(注2)。一方、同時期のマトゥラーにおいて弥勒が如何様に理解されていたのかを読み解く試みは、これまで十分に進められているとは言い難い。マトゥラーでは西北インドに比べて菩薩の造像例が乏しく、十分な発掘報告もなされていないため、分析が困難であること等がその要因として挙げられよう。しかし、インド内部における弥勒受容の様相や地域的展開の特質を考える上で、マトゥラーが重要な地であることは言を俟たない。そこで本調査では、仏像起源の地として知られる中インドのマトゥラーを主たる対象に、当地における弥勒受容の状況を探る手始めとして、弥勒を造形化した作例の収集・整理を行った。マトゥラーでの事情を整理することで、同一王朝統治下における西北インドとの類似点と相違点を明確にするとともに、その後の各地における弥勒受容の特徴と地域的展開を追ううえでの足掛かりとしたい。2.マトゥラーの位置と価値マトゥラーMathurāは、インドの首都・デリーから南東に約145キロの地点にある。ガンジス河の一支流であるヤムナー河の西岸に位置し、西北インドへと続くいわゆる北路Uttarapatha、アジャンター石窟などを擁するデカン高原方面へ向かう南路Daksinapathaが交差する要衝であり、古来、一大通商都市として栄えた。『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』といった叙事詩にも古来より人の住む地としてその名がみえ、紀元前4世紀ごろの段階でメガステネスがクリシュナ信仰の要地として、紀元― 286 ―― 286 ―

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