鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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後2世紀ごろにはプトレマイオスが神々の都としてそれぞれ報告しており、西方世界にも知られる存在であるとともに、宗教的にも充実した地域として認識されていたことがわかる。それを裏付けるように、19世紀前半から行われた周辺域の発掘では多くの宗教的遺物が見つかり(注3)、それらをもとに当地の宗教事情に関する研究がすすめられてきた。なかでも、仏教美術に関わる研究では、仏像の起源の問題、仏像に付される「菩薩」銘の問題、ヤクシャ信仰やナーガ信仰の受容、ジャイナ教との関わりといったキーワードからの問題提起が主として行われており、当地における宗教文化の多様さと複雑さを明らかにしている(注4)。さらに、考古遺物に付される銘文から、説一切有部、大衆部をはじめとする部派の拠点がマトゥラーに存在した可能性が指摘されている。仏典や歴史資料と照らしてみても、当地が部派や大乗の活動実態について考察するうえで重要な地域であることが理解される(注5)。この地から発信される情報の影響力を鑑みたとき、当地における弥勒受容の様相を明らかにすることは、同時代、そしてその後の時代における弥勒をめぐる情報の伝播の様相、ならびに弥勒受容の地域的展開を検討するうえで意義深い。クシャーン朝期のマトゥラー周辺域における弥勒を対象とする研究は管見の限り仏教学の方面には見当たらないが、当地で出土した優品の弥勒像に言及する美術史学の成果、ならびに、弥勒像に付された銘文を扱う碑文学の成果がある。3.クシャーン朝期マトゥラーの弥勒像に関する先行研究マトゥラーの弥勒像についてまとまった言及がみられるものとしてA. K. Coomaraswamy1965、山本智教1956、宮治昭1992などが挙げられる(注6)。先行研究の成果により、マトゥラーでも菩薩像に少なくとも二種の描き分けがあったことが判明している。すなわち、釈迦菩薩と判断し得るターバン冠飾をつけた例と、弥勒菩薩と判断し得る水瓶を執る例である。出家前は王族であった釈迦がターバン冠飾を着けてあらわされること、一方、バラモン階級の出身である弥勒が行者風に簡素なヘアスタイルで水瓶を執って表現されることは、西北インドにおける豊富な造像例をもとに明かされている(注7)。西北インドの分類を意識しつつ、マトゥラーでも同定作業が行なわれており、先行研究でも釈迦菩薩や弥勒菩薩像と解しうる作例がそれぞれ指摘されている。ただし、マトゥラー周辺域出土像は、一部の優品を除き、分析に耐えうる鮮明な写真を公刊物から見出すのは困難であり、先行研究の中でも一部に混乱― 287 ―― 287 ―

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